福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が、関ヶ原の戦いの後、柴田勝家の北ノ庄城を跡地を拡張して築いた巨城です。 福井駅から徒歩5分。今は大きな堀と立派な石垣に囲まれた本丸内に県庁と県警本部、県議会議事堂が建ち、 少し前に「日本一の防御力を持つ県庁」としてtwitterで話題にもなりました。
それでは、昔も今も正面入口である南の本城橋を渡り、中に入りましょう。
本城橋の上から東の方向の堀と石垣。かなりかっこいいです。
本丸に入って右に曲がったところに築城者・家康の次男、結城秀康公の像。
かつての入口は枡形構造で、右に曲がったところに瓦御門という櫓門があったのでこの方向に曲がるのはアリ。
秀康は、5歳のときに家康長男・信康が自刃しており、生まれ順なら家康の後継者だったのですが、
母親の身分が低かったことから養子に出されて二代将軍になれなかった人。
ただ、武将としての器量は一流で周囲からも認められていたそうです。
結城秀康公像の奥にある説明板。今も周囲の内堀が完全に残っているので、昔の姿がとてもイメージしやすいです。
説明板横の案内図。現在の見どころがわかりやすく示されています。
案内図に従い、本城橋を入って右手の石垣の上に登りました。本城橋の上から見たのと同じ東を向いた方向。
こちらは西を向いたところ。本城橋の袂に見える少し突き出た石垣のところに「御門」が建っていたようです。
石垣の上から北側、本丸内部の方向を見てみました。松の木があるあたりに本丸御殿があったようです。 正面の県庁舎とその左の県警本部のビルの間の向こうに天守台の石垣が少し見えています。
天守台のほうへ。天守台の上には四層五階の壮大な天守が建っていましたが、 1669年の大火で焼失後は再建されないまま。
説明板。大きな天守台の上にはさらに台があり、本当に天守が建っていたのは、左の大きな台の上半分だったようです。
では、石段を登り、天守台の上にいってみましょう。
石段を上がったところ。左側が天守のあった台で、右側が控天守台。
天守のあった台の上に。石垣は綺麗な切込接(きりこみはぎ)。
天守のあった台に上がる石段を別角度から。石垣が崩れているのは昭和23年の福井地震の影響のようです。
天守の礎石が残っています。
控天守台。崩れはこちらも福井地震の影響です。
福の井。秀康の次男、3代藩主・松平忠昌のときに、北ノ庄の地名が福居と改められ、その後福井になりますが、 一説にはこの井戸に因んだといわれているそうです。今は雨水が溜まっているだけなんだとか。
天守台から南西の方向を見ると、平成20年に復元された御廊下橋が見えます。ではそちらに行ってみましょう。
その手前に「山里口御門」。こちらは平成30年に復元されたもの。
山里口御門の中はこんな感じです。
正徳4年(1714)の御城下之絵図。堀は本丸を囲う内堀を除きすべて埋められてしまいました。 福井駅は百閒堀を埋めて造ったのでしょうか。
山里口御門の櫓から御廊下橋を見たところ。 歴代藩主のうち5人は、西三の丸の御座所に住み、そこから本丸に通っていたそうです。 御廊下橋は藩主が行き来するための橋でした。
では山里口御門をくぐりましょう。門は枡形になっています。
門をふり返ったところ。瓦屋根は石で作られています。
御廊下橋のなか。
御廊下橋と山里口御門を堀の外から。
最後に堀を一周して、石垣と水堀を堪能しましょう。 こちらは天守台のある北西方向。
本丸に入る北側の入口には不明門がありました。
本丸を北東方向から。角には艮櫓がありました。
本丸を南東方向から。角には巽櫓がありました。
本丸を南西方向から。角には坤櫓がありました。
これだけ町のなかにあって内堀が完全に残っているのはすばらしいですね。 一周しても行き止まりのところがなく歩けるところもよかったです。