越前大野城は、大野盆地にある標高約249mの亀山に、1576年頃から4年の歳月をかけて築かれた城です。 山上に本丸、東麓に二の丸、三の丸とその外側に外曲輪が置かれました。 築城者は、1575年、越前一向一揆を収束させたのちに、織田信長から大野郡の3分の2を与えられた金森長近。 東西6筋、南北6筋、碁盤の目のように区割りされた城下町のいたるところから「清水(しょうず)」と呼ばれる湧水が湧き出ています。
では山上の本丸へ。登城口は三か所ありますが、ナビに連れていかれたのは西登り口でした。
西登り口から天守へは、最も近道ながら急な階段を上る道と大きく迂回していく道の二択。 階段にしましたが、想像以上にきつく後で後悔しました。。
山上部は北東と南西へ延びる尾根上にいくつか曲輪が配置されています。
一番南の曲輪に幕末の藩主、土井利忠公の像。
大野藩は、1624年、関ヶ原の戦い後、越前一国を与えられた家康次男・結城秀康の長男・松平忠直の改易に際し、
弟らに所領が分け与えられる形で、三男・直政が大野に封じられて立藩しました。
1682年、家康の母方の従兄弟で二代将軍秀忠時代に老中として絶大な権勢を誇った土井利勝
の四男・利房が封じられてからは、明治維新まで土井家が藩主を務めました。
天守はここからあと二段上の曲輪です。橋の下は大きな堀切。先には一段上の曲輪が見えます。
天守曲輪に到着。門は後につけられたものです。
模擬門の先に天守が見えました。本丸の建造物は、1775年に大火で焼失後は再建されなかったそうで、 今ある天守は昭和43年に建てられた模擬天守です。
天守の石垣の脇には、金森長近の正室・お福の名前が由縁の「お福池」。
模擬門の隣には、武具蔵跡。
天守正面にまわりました。江戸時代は、いま大天守のあるところに小天守があり、 その奥に大天守、その隣に天狗櫓が建っていました。
右手に「駕籠道」。
左手に「武者登り」。このあたりの石垣がとてもいい感じでした。
武者登りを上から。
天守のなかは資料館になっていて撮影禁止。 最上階から町の景色を見ることができます。こちらは南の方向。
東は城下町の方向。
西の方向。正面の山には戌山城(いぬやまじょう)がありました。 こちらは金森長近が大野を与えられたときにはじめに入った城。 秋の明け方から午前9時頃にかけて、条件が良ければここから天空に浮かぶ大野城が撮影できるそうです。
権現宮跡。天守石垣上の北西端。
天守曲輪の北東端には金森長近公の像。金森長近は美濃の守護、土岐氏の支流にあたる家柄でしたが、 土岐家の内紛をきっかけに美濃を離れ、近江国野洲郡金森へ移住。その後、信長に仕えるようになりました。 秀吉の時代に飛騨高山の領主となり、ここでも高山城と京の町並みを模した碁盤目状の城下町を築きますが、 子孫は1692年に出羽上山藩、1697年に美濃郡上藩に転封された後、1758年、郡上一揆を咎められ、改易されました。
天守曲輪の北東端の石垣。
麻木櫓跡は、現在休憩所になっています。 麻木櫓は大野城で唯一の二階建ての櫓で、かつては城下を見下ろすことのできる場所だったようですが、 今は視界不良。
百間坂。江戸時代、城の本丸へ行く道は、百間坂のみでした。 それ以外の登城道は明治以降に整備されたものとのこと。
南登り口の模擬門。
柳廼社(やなぎのやしろ)。山上に像があった幕末の藩主、土井利忠が祀られています。 明治15年に創建されました。
城下町で湧水スポットをめぐる
湧水の出る町って素敵ですよね。 城下町の湧水スポットを少し歩いてめぐってみました。
芹川清水(せりかわしょうず)。
水舟清水(みずぶねしょうず)。
こちらは「芹川用水」。 武士屋敷と町人屋敷の境の役割があり、江戸時代、町人はお上の許しが無ければ、武家屋敷の側には入ることができませんでした。
こういうクランクになっているところは昔からの道ですかね。。
御清水(おしょうず)。
大野は朝倉義景自刃の地だったのですね。朝倉義景の墓所がありびっくりしました。
そして墓所の傍に、義景清水(よしかげしょうず)。
すごい勢いで水が湧いていたので動画を撮ってみました。
最後に駐車場に戻る途中にあった新堀川沿いに湧く、新堀清水(しんぼりしょうず)。 新堀川は、金森長近が越前大野城を築いた際に外堀として掘られたものといわれています。
以上で散策は終了。16:30に出て、東京の自宅に着いたのは22:10。5時間40分で帰れました。