新高山城(にいたかやまじょう)は、1552年に毛利元就の三男・小早川隆景が築いた城。
小早川隆景は、年齢は豊臣秀吉の4歳上。秀吉や軍師黒田官兵衛も認める知将でしたが、
私欲はなく、生涯毛利本家を守るために尽くした人物です。
隆景が養子に入った小早川家は、元々土肥氏といい、当時の所領、
小田原の早川から小早川を名乗るようになったといいます。
平氏の討伐などで活躍し、鎌倉幕府の地頭職を得て、安芸国沼田(ぬた)荘に移住してきました。
室町時代に芸予諸島に進出して水軍の基礎を築きます。
隆景は1544年、12歳のときに分家の竹原小早川家の養子になった後、
18歳のときに本家の沼田(ぬた)小早川家も相続し、両家は統一されました。
その翌年、沼田小早川家の居城である高山城に入城しますが、
その1年後、沼田川の対岸にあった新高山山頂の砦を修築し、新高山城を築城。
居城を移しました。
1567年、水軍の基地、瀬戸内防御の拠点として三原城を築城。
秀吉と講和後は、四国征伐、九州征伐の軍功によって、
伊予の湯築城、筑前の名島城に居城を移しますが、
その間も新高山城は、小早川家の本城として残されました。
1595年、家督を養子の小早川秀秋に譲ると、三原城を隠居所と定めて修築。
この修築に新高山城の石垣が用いられ、新高山城は廃城になったといわれます。
秀吉は、1593年に秀頼が生まれると、
それまで自分の後継候補の一人であった羽柴秀俊(ねねの甥)を、
隆景の甥で、実子のいなかった毛利家の当主・輝元の養子にしようと企てます。
天下人の要求を無下にもできず、しかし毛利家の血筋を守らなければならなかった隆景は、
秀吉に対して、輝元には元就の四男・穂井田元清の子、秀元が既に養子としていることを説明し、
自身も実子がいなかったことから、自分の養子にしたいと申し出ました。
これを秀吉が許し、隆景は秀俊を養子に迎えます。
その結果、自分が養子にとっていた元就の九男・秀包(ひでかね)は廃嫡されました。
秀俊は、隆景の没後に秀秋と改名。関ヶ原の戦いで有名なあの"小早川秀秋"です。
1597年、隆景が65歳で亡くなると、小早川家の家臣は、豊臣ゆかりの人たちで構成されるようになったそうです。
1600年、秀秋は関ヶ原の戦いの功績で、岡山藩55万石の大名となりますが、
子どもの頃から酒を飲み続けていて、1602年に21歳で早世。
小早川家は、徳川政権初の無嗣改易になりました。
あのとき秀秋が輝元の養子になっていたら、毛利家はどうなっていたか、、
隆景は、捨て身で毛利家を守りました。
訪問日:2020年11月21日(土)
広島空港でレンタカーを借り、続100名城スタンプ設置場所の本郷生涯学習センターには、約20分で到着。 その駐車場から、右手奥に見えている山が新高山城です。
本郷生涯学習センターから車で約10分、「新高山城跡駐車場」に移動。 下の写真は、その途中に一時停止して撮ったもの。 右手の山は高山城で、中央の沼田川を挟み、左の山が新高山城です。
新高山城跡駐車場にある説明板。
駐車場から見た新高山城。紅葉が綺麗ですが、中腹以上の斜面は岩石が露出しています。。
大手道入口。
登山道の看板。
登山道入口の説明板。
登山開始からいきなりの急登で、意識してゆっくり登らないと、すぐに息が上がります。 説明板のところにたくさん置いてあった杖を借りて大正解。 10分弱で鐘の段の案内標識が見えました。
鐘の段
細い道を歩いた先にひらけた場所がありました。鐘の段(北側の郭)。
縄張りの説明は読んでもよく理解できませんでしたが、 パンフレットの縄張図と照らし合わせてみると、説明板の背後にもう一段高い郭があり、その周囲に郭が配されている様子。
鐘の段(中央の曲輪)。パンフレットの縄張図がなければ、見逃してしまうところでした。
鐘の段(中央の曲輪)から南の眺望。
鐘の段(南の腰曲輪)。
鐘の段(東の腰曲輪)。
鐘の段(西の腰曲輪)。
番所跡
鐘の段の案内標識のところまで戻り、右手をよく見ると何の説明もない郭がありました。 三段で構成される番所跡のおそらく「中の段」。
もう一つ上の説明板がある郭が、おそらく最上段の「軽石の段」。 説明板が立っているところが曲輪の入口。周囲は土塁で囲われていて、入口側の土塁には石垣が少し残っています。
三段あるなら三つ見てみたい。「下の段」には、下山のときに立ち寄りました。 説明が何もなかったのですが、たぶんここでよいはず、、。
匡真寺(きょうしんじ)跡
隆景が1577年に建立した寺院跡。瓦の破片がたくさん落ちていました。
ここで、この先の縄張図を確認。
中の丸(二の丸)
山頂部に到着。中の丸への入口は外枡形の雰囲気。
中の丸は本丸の北方と西方に広がっています。こちらは西方。
奧は一段高くなっていて、上にあがれましたが、眺望はいまいちだったので写真は割愛。
本丸側には、建造物の基壇と思われる石列。
その奥には崩れた石垣が。このあたりの石垣は三原城の建設に使われたため、崩れた状態になっているそうです。 石垣の上が本丸で、右のほうから本丸に上がっていけますが、その前に中の丸の北方の郭に行ってみます。
中の丸北方の郭への入口。
中は結構な広さ。
東の眼下に広がる釣井の段(井戸郭)。こちらも広義の二の丸。紅葉が綺麗でした。
中の丸北側の端には、虎口のようなところがあり、
虎口を出て、帯曲輪のようなところを歩いて行くと、 先程中の丸の上から見た釣井の段に出ました。
釣井の段には6つの井戸跡があります。
東の丸の石垣。
東の丸の南、釣井の段から一段高い曲輪がライゲンガ丸。名前の由来は不明。
釣井の段から本丸虎口付近の石垣。
本丸
釣井の段のある北側から本丸への入口が大手門跡とのことですがかなりの急坂です。
本丸の崩れた石垣のところに戻って、南側から本丸に入りました。入口は内枡形の風。
本丸全景。
本丸の南東、一段高くなっているところが詰の丸。
詰の丸からの眺望。年配グループの人たちが休憩中で、 その一人のおばあさんから「ココナッツサブレ」をいただきました(笑)。 本郷の町を眺めながら、自分もしばらく休憩。正面の山は、高山城です。
三の丸
石弓の段。
西の丸。「西の丸・北の丸」の説明板があるところ。
北の丸のほうは未整備で、以上で散策を終えました。 ゆっくりまわって所要時間は2時間50分。 気持ちのいい登城でしたが、地面が岩のように硬く、足腰にはかなりダメージを受けました。。。 靴はしっかりしたものがおすすめです。