この地域は、室町期には三原浦と呼ばれ、瀬戸内海と山陽道両方をおさえた立地で栄えたところ。
毛利元就の三男、小早川隆景は、水軍の基地、瀬戸内防御の拠点としてこの地に目をつけ、
1567年、沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島と小島をつないで、三原城を築きました。
沼田川の上流に小早川家の本拠である新高山城がありますが、
隆景は1573年頃にはこちらの三原城にほぼ常駐していたようです。
1587年、豊臣秀吉の命で筑前名島に移りますが、
1595年、養子の秀俊(秀秋)に家督を譲ると再び戻って、ここを隠居所としました。
1597年、隆景は病没。1600年、関ヶ原の戦いを経て、福島正則が安芸・備後に入封すると、三原城には養子の正之が入城。
1615年、幕府の一国一城令により、各藩は藩庁以外の城の破却を命じられますが、
三原城は三原要害として存続が許されます。
1619年、福島正則が改易されると、浅野長晟が紀州藩から移って広島藩主となり、
三原城には筆頭家老の浅野忠吉が入城。そのまま浅野家が続き、明治維新を迎えました。
訪問日:2020年11月22日(日)
下の写真は、三原城船入櫓跡にあった、現在の地図と三原城の縄張りを重ねた図。
城のあった当時は、二の丸から南は海でした。
今は、城の真ん中を三原駅が貫いていますが、周辺には天守台とそのまわりの堀、
本丸中門跡、船入櫓跡など遺構が点在しています。
今回泊まったホテルが、本丸中門跡を入ったところに建つ三原国際ホテル。
部屋は古くて残念でしたが立地は最高。朝6:45にチェックアウトして、
遺構探しの散策に出かけました。
こちらが江戸時代末期の三原城の図。 海に浮かぶように見えたことから、浮城と呼ばれていたそうです。
三原駅前。ちょうど本丸だったところを見ている感じ。駅前はとても綺麗でした。
三原駅西口。新幹線ホームの真下にある「かくれ城跡」は本丸西面の石垣。奥が天主台の石垣。反りがすごいですね。
まず最初に天主台の上に行くことにしました。駅の中から上がります。もちろん切符は不要です。 三原の名物はたこ。
天主台の上。特別遺構はありません。
反対(南)を向けば、新幹線のホームが見えます。
南西方向。絵図によれば昔は駅の向こうまで堀が続いていました。
北西方向。昔は堀に沿って西国街道が通っていたそうです。
北東方向。奥には詰め城の役割があったといわれる桜山が見えます。 堀は、南のほうに折れ曲がっていますが、昔は東のほうにも延びていました。
南東。ちょうど日の出の時間でした。 東側は本丸とくっついていたので、堀は昔からここまでだったよう。
では、天主台を下りて、その周りを歩いてみます。
天主台西面。
復元された西国街道。正面に桜山。
天主台の石垣は西半分と東半分で築かれた時代が違うのだそうです。 角の隅石を見るとそれがよくわかるとのこと。こちらの西半分は、小早川隆景の時代のもの。 扇の勾配が美しいのが特徴。
こちらの東半分は、それより新しい福島正則時代のもの。 西半分と比べると、細長い角状の石が長・短と規則正しく並んだ綺麗な算木積みになっています。
東にも天守台跡に上がる入口がありました。
高架下の「かくれ城跡」は本丸東面の石垣。
高架下のかくれ城跡を反対側から。それにしてもすごい残しかたですね。。
こちらの駐車場の下の石垣も城の遺構で、鍛冶曲輪跡の石垣。
こちらの高架下に見えるのは、二の丸東面の石垣。
和久原川の水刎(みずはね)。城郭を守るために水の流れを緩和するため、三角形に石垣を突き出したものを「はね」というそう。
二の丸東面の石垣。左奥が船入櫓跡。
船入櫓跡の上は建物の礎石らしきものがあるだけ。周囲を生垣で囲まれ眺望もよくありません。
船入櫓跡を外側から。立っている場所は元々海だったところ。 隆景は三原湾に浮かぶ大島と小島をつなげて築城したといわれていますが、その小島があった場所が船入櫓跡だったよう。 石垣の角を見ると岩の上に乗っているのがわかるのだとか。 なお、大島があったのは天主台跡のところと考えられているようです。
船入櫓跡の西側は完全に埋め立てられています。
船入櫓跡から西に向かって歩いていった南側。昔は今、立っているところから先が全部海でした。 奥に見える青と黄色の屋根のところが現在の三原港。
一番櫓跡。海に面していた櫓。堀の突き当たりのところが本丸中門跡。
本丸中門跡。絵図を見ると、本丸、二の丸への入口は東西二か所で、こちらは西の入口でした。 今は、なかに宿泊した三原国際ホテルなどが入ったビルが建っています。
以上で散策は終了。駅前にあった観光案内図。これと同じ散策マップがパンフレットで用意されていて、 これを見て歩きました。わかりやすくて、とても役に立ちました。