一宮城は標高約144mの城山に築かれた山城。
北城(本丸、明神丸、才蔵丸)と南城(小倉丸、椎の丸、水の手丸)で構成されます。
築城は1338年。小笠原長宗による。長宗は城内に一宮神社の分霊を奉祀し、その後一宮と称します。小笠原氏は、甲斐源氏の流れを汲む一族で、承久の乱以後鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務めました。長宗の頃より、足利氏から阿波に派遣されていた細川氏と対立。降伏後、その家臣になり、そののちは三好氏に従いました。なお三好氏も元は小笠原氏の一族だったようです。
阿波・勝瑞城主の三好長治は、信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年以後も、
度々畿内に進出して信長に抵抗しましたが、信長との戦いに大きな功績があった重臣篠原長房を部下の讒言を信じて討つなどの失政が続き、家臣が離れていきます。
1577年、一宮城主の一宮成祐は、長治の傀儡だった阿波守護の細川真之が反旗を翻すとこれに呼応、長治を攻めて自害に追い込みますが、三好方の反撃に遭って土佐の長宗我部元親を頼りました。
これが長宗我部氏の侵攻を許すかたちになり、一方の三好軍は信長の支援を受け、
しばらく両軍の攻防が続きましたが、1582年、本能寺の変を機に織田軍が撤退したことで長宗我部氏が勝利。しかし戦後、一宮成祐は織田軍と通じていたことを疑われて長宗我部氏に殺害されてしまいます。
長宗我部氏の家臣が入城した一宮城は、1585年、秀吉による四国攻めに降伏して開城。
四国を統一した秀吉は、蜂須賀家政に阿波一国を与えます。
家政は一宮城を居城とする一方で、徳島城の築城を開始。
1586年、徳島城が完成するとそちらに移りました。
その後も一宮城は蜂須賀氏の重要な支城としての位置づけでしたが、
江戸幕府の一国一城令により、1638年に廃城となりました。
一宮城登城口
続100名城のスタンプもここで押せます。
登城口の反対側は一宮神社の駐車場。車はここに停めますが、敷地の真ん中に生えている木が邪魔で停められるのは2台ほど。
登城口にある案内図。登城口から入ってところどころ遺構を見学しながら、
時計回りに一周して戻ってこられます。
なお、現在は最初に見える倉庫跡の先、分かれ道を左に行った2つ目の倉庫跡への道はロープが張られていて進めません。その先、本丸と小倉丸の間から貯水池にぬける道も無くて、その代わりに小倉丸と椎の丸の間に貯水池にぬける道があります。
案内図の横に置いてある散策マップがいまを反映したものになっているので、これを持って回るのがよいです。
倉庫跡
登城口から約8分で到着。
倉庫跡から北東の眺め。中央奥は、三好氏居城である勝瑞城、さらに奥は鳴門の方向。
倉庫跡入り口脇の竪堀。これはよくわかりました。
明神丸、本丸に続く尾根筋に沿って進みます。
湧水の案内板を過ぎてからは急坂。登山道は入口から才蔵丸まで階段状に整備されていますが、 なかなかきつい登りでした。
才蔵丸
才蔵丸(左)と明神丸(右)の間の堀切。 続100名城公式ガイドブックにも写真が載っているところ。
才蔵丸の虎口。
才蔵丸。
才蔵丸からの眺め。倉庫跡よりもう少し東寄りの方向。正面に見える山が、 徳島を代表する山、眉山。
門跡
入口は石段付き。左に行くと明神丸、右に行くと本丸。
明神丸
まずは明神丸へ。奥に見える土塁の上が明神丸になります。
明神丸周辺案内図。登城口の地図とは上下が逆転していて、上が北。 右上の至一宮神社のほうから堀底道を通ってここまで来ました。
明神丸。右手奥に展望がひらけたところがあります。
明神丸からの眺めをパノラマ撮影。倉庫跡や才蔵丸から見たのと同じ北東の方向。
門跡に戻って明神丸と本丸の間の帯曲輪。
本丸
いきなり目の前に現れた本丸の石垣。登山口から約30分。
本丸南面の石垣。
さらに奥へ。石垣には緑色がかった平たい石が多く使われています。 徳島青石よばれる緑色片岩。以前訪れた徳島城の石垣も同じ石でした。 特徴的な石なので、石に詳しくない私でもこの石を見ると徳島に来たという気分になります。
本丸石垣南西端。左に行くと南の小倉丸のほうに行けることを確認しながらまずは右へ。
右は本丸の西端、釜床跡。
釜床跡は炊事場があったところだそうです。
本丸石垣の上にあがり、全景。
本丸上から石垣正面の石段を見下ろしたところ。
本丸上から北東面の石垣。
本丸周辺案内図。地図は上が北です。 次は南に延びる道を通って小倉丸に向かいます。
小倉丸
小倉丸に行く途中、登山口にあった散策マップで「城内最大規模の堀切」と書かれているところ。
鉄塔があるところまで来たら小倉丸までもう少し。小倉丸は右手奥。
正面の土塁の上が小倉丸です。右手奥に虎口があります。登山口から約50分。
小倉丸のなかに入って、北側から南を見たところ。 縄張り図のとおり西側には土塁が長く続いています。
反対の南側から北を見たところ。立派な土塁は迫力がありました。
水の手丸
小倉丸の先、散策マップに名前の記載のある曲輪を全部見るなら、椎の丸~水の手丸~貯水池を経由するコースですが、椎の手丸方向には「難所あり」との表記があり、先人の登城記でもみな途中で断念していたので、椎の手丸は回避。直接貯水池に行くコースを通り、水の手丸だけ少し戻って見学することにしました。
引き返す道は結構な急坂。ようやく水の手丸が見えました。
水の手丸。思っていたより広い曲輪でした。曲輪の西側には土塁が残っています。
貯水池
池といっても水はほとんどなく、池跡でしょうか?
陰滝
貯水池の先、鎖を伝って下ります。下りはそれほどきつくありません。上りはわかりませんが。
陰滝を下から。貯水池の水が流れて陰滝なのだそうです。
一宮神社
下山後、一宮神社を参拝。御朱印もいただきました。
城巡りを始める以前、私は全国一の宮巡りをしていましたが、このとき阿波一宮は大麻比古神社を参拝しています。阿波一宮については、平安時代当初は上一宮大粟神社で、後に一宮神社に移り、南北朝期に守護細川氏の影響下で大麻比古神社が一宮となったとする説が現在有力だそう。一の宮完全コンプリートを目指すなら上一宮大粟神社も参拝しないといけませんが、それはまたの機会に。。
徳島県は京都と歴史的にとても近い関係にあるということがわかったのが、今回勝瑞城とあわせて一宮城を巡った旅の収穫。いい勉強ができました。
(滞在時間:2時間)