今日は江東区砂町中部の文化財めぐりをしてきました。
江東区域で徳川家康が1590年に江戸に来る前までに陸地化されていたのは、
亀戸の北部と旧中川に沿ったあたりぐらいだったそうです。
西のほうは墨田区の吾妻橋近く、アサヒビール本社ぐらいまでが陸地でそこから南は干潟が広がっていました。
それから約100年間、1700年ぐらいまでのあいだに木場と東陽町をくり抜いた門前仲町から砂町あたりまでが、
順次埋め立てられていきました。
それから木場、最後に東陽町のあたりが埋め立てられて、
江戸末期の頃は現在の永代通りぐらいまでのところが江戸湾の海岸線だったようです。
ちなみに砂町の由来になった「砂村新田」は万治2年(1659)に砂村新左衛門一族によって開発された土地で、
砂町でも現在の清洲橋通りから南の部分。今日はそちらのほうには行かず、砂町銀座の真ん中から出発して東のほうを歩きました。
江戸時代は、新田(村)ができると地元の鎮守としてそこに必ず稲荷社が建てられたそうで、
砂町にもそうしてできた神社が点在しています。
亀高神社
亀高村の鎮守。もとは亀高稲荷。寛永年間(1624-44)初めに創建。
現在の砂町銀座あたりが氏子地域。今は亀高という地名はなくなってしまいましたが、この神社や近くの小学校などに残されています。 砂町銀座は何度も来ていますが、道を一本入ったところにこのような神社があるなんて全然知りませんでした。
徳川吉宗が鷹狩の途中に参詣したという言い伝えもあるそうです。 その頃とはまわりの様子もだいぶ変わっているでしょうね。。
現在のコンクリートの社殿は、昭和43年に再建されたもの。 旧社殿は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまったそうです。。
持宝院
真言宗智山派の寺院。砂町の厄除け大師。創建年代は元亀・天正年間(1573-92)の頃とか、寛永3年(1626)とかいわれています。 このあたりが埋め立てられた時期からすると、この地に建てられたのは寛永3年でしょうか。
実はアド街の砂町銀座の回(2002年7月6日放送)で3位にランクインしているお寺です!
本堂は、亀高神社と同じ東京大空襲で焼けてしまい、昭和41年に再建されました。 本堂の左右に置かれた燈籠は、10代将軍徳川家治の死去に際して上野寛永寺に奉納されたもの。 戦後になってこのお寺に移されたそうです。 左のものには、但馬国出石城主仙石久道、右のものには丹後国宮津城主松平資承と刻まれていました。
西誉蓮入入定墳の碑。 元禄5年(1692)、西誉蓮入という僧が村民を疫病から救うため、念仏を唱えながら21日間の断食をして、 ここで亡くなられたのだそう。砂町にそのようなエピソードがあるとは、驚きました。碑は文政6年(1823)に建立。
石造宝篋印塔(せきぞうほうきょいんとう)。元文4年(1740)再興と刻銘されています。
法輪観音と奥に太子堂。
綺麗に整備されたお寺でした。
砂町運河跡(仙台堀川公園)
江戸時代に江東区地域の開発が急速に進んだきっかけは、4代将軍家綱の頃にあった「明暦の大火(1657)」です。
それまで江戸市中にあった武家屋敷や寺院が防火策の一環として深川地域に強制的に移転させられ、深川の町ができました。
一方、江東区の東半分、城東地域は、江戸向けに旬の野菜を供給する農村地帯として発展。
砂町は野菜の促成栽培発祥の地なのだそうです。びっくり。
明治以降、城東の農村地帯は工業地帯に変わりました。仙台堀川公園の、小名木川の人道橋「塩の道橋」から南下して都立東高校前で西に折れ、横十間川に合流するまでの区間は、かつて砂町運河だったところ。開削には渋沢栄一も関わっていたそうです。大正11年着工、昭和8年完成。戦後、舟運の需要が減ると運河としての役目は終わり、昭和55年に公園として生まれ変わりました。今は桜の名所です。
生田神社
旧中川の河口近くまで歩いてきました。こちらの神社は太郎兵衛新田の鎮守。創建は慶安年間(1648-51)。
安産守護の神徳があるとして周辺村々からの参詣もあったとのこと。 ちょうど近所に住んでいるっぽいお父さんと小さい娘さんの二人連れがお参りに来ていました。 お母さんの安産祈願でしょうか。。
因速寺
浄土真宗大谷派の寺院。元和年間(1615-24)に京橋竹町に創建後、数度移転。 大正12年、深川黒江町で関東大震災に遭い、昭和2年に現在地に再建されました。
このお寺には寛文年間(1661-73)に促成栽培を考案したといわれる初代松本久四郎のお墓があると聞き、 探してみたところ、かなり立派なお墓で驚きました。7代目久四郎が昭和2年に建てたものだそうです。 初物は江戸市民にかなり人気だったようですから、儲かったのでしょうね。。
上妙寺
因速寺の隣にあるこちらは、荻新田を開いた荻家を開基とする日蓮宗の寺院。創建は寛永2年(1625)。
あじさい寺として知られる松戸の本土寺の末寺だそうです。
本堂。
鬼子母神堂。鬼子母神は日蓮宗で祀られることの多い安産・子育の神。 このお寺では、かつて大津波が起こった際に、海中から鬼子母神像が出現。 以来これが霊験顕著として篤く信仰されたのだそうです。 残念ながらその尊像は先の戦災にて消失してしまい、現在の尊像は2代目なのだそう。
鬼子母神道道標。文化10年(1813)再建と刻まれています。 もともとは小名木川沿いに建てられていたもの。小名木川もここから北に向かって歩けばもうすぐそこです。