日本100名城:小田原城(神奈川県小田原市)に行く

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後北条氏の居城として有名な小田原城に行ってきました。 北条氏滅亡後は江戸の西の守りを固める要衝として重要な役割を担った城です。

城主は、天正18年(1590)から慶長19年(1614)までと、約70年間隔をあけて、 貞享3年(1686)から明治を迎えるまで、あわせて200年以上の期間に渡って徳川譜代の家臣である大久保家が務めました。

文禄3年(1594年)に父・忠世(ただよ)の家督を継ぎ城主となった大久保忠隣(ただちか)は、幼少の頃より父とともに家康のもとで活躍した武断派の武将。家康の息子の中で秀忠が2代将軍になったのは、忠隣の推薦があったからというくらい徳川家から厚い信頼を受けていましたが、慶長19年(1614)に突然改易を言い渡されました。政治的なライバルだった本多正信、正純父子による策略といわれています。

忠隣の孫・忠職(ただもと)はこのとき武蔵騎西藩の藩主でしたが、蟄居の後に大久保家の存続を許されます。その後加増を受けながら美濃加納藩、播磨明石藩、肥前唐津藩と転封。再び信頼を勝ち得て、跡を継いだ従弟の忠朝が貞享3年(1686)、小田原藩に復帰を果たしました。

本多正純もまた元和8年(1622)に「宇都宮城釣天井事件」で失脚してしまうのですが、こちらの子孫は大名への復帰は叶いませんでした。。

少し横道に逸れましたが、小田原城は江戸時代以降、70~80年周期で大きな地震に見舞われています。特に寛永10年(1633)、元禄16年(1703)の地震は大きな被害が出ました。

寛永10年に城主だったのは春日局の子、稲葉正勝。この震災をきっかけに本格的な城の整備と改修が行われ、現在見られる近世城郭のかたちができたといわれます。現在のかたちの天守が造られたのもこのときでした。

小田原城址公園

現在、本丸と二の丸周辺は公園として整備されています。

御茶壷曲輪

南入口になっているこみ小峯橋から園内に入りました。 たまたま車を停めた駐車場に近かったという理由。

橋を渡って右手が御茶壷曲輪です。奥に見えているのは二の丸の銅門(あかがねもん)。

馬屋曲輪

御茶壷曲輪より住吉堀越しに見た馬屋曲輪。 馬屋曲輪は稲葉正勝の時代に登城する人が馬を繋ぐための馬屋が建てられた曲輪です。

馬屋曲輪南西隅の櫓(二重櫓)跡の石垣上から見た馬屋曲輪全景。 馬屋があったのは左の建物の手前の地面が茶色になっているあたり。 元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊後は再建されなかったそうです。

小田原城案内図

ここで案内図を確認。現在地は馬屋曲輪です。 小田原城は明治3年に廃城になると明治5年までに城内の建造物はほとんど取り壊されてしまいました。大正12年の関東大震災では唯一現存建造物だった二の丸平櫓も倒壊。 その後、住吉堀、二の丸城北一帯の堀も埋め立てられたそうです。
平成5年に小田原市が本丸、二の丸について江戸末期の姿に戻す計画を策定。 以後、発掘調査、復元整備がされてきました。 平成21年に馬出門が復元されたことで、天守までの正規の登城ルートが完成。 公園はこのルートでの見学を推しているようなので、この後、あらためて馬出門から入城することにしました。

天守に展示されていたジオラマで江戸期の姿も確認。 今通ってきた場所も含めて、写真の左半分(南側)は堀も復活して昔の姿に近い状態になっています。

馬出門

平成21年(2009)復元。

二の丸の正面を守る馬出門。奥に天守が見えます。右手のめがね橋(馬出門土橋)を渡ります。堀に浮かぶアヒルは何でしょうか。。

馬出門正面。江戸初期には橋を渡って直ぐに門が設けられていましたが、 稲葉家時代、寛文12年(1672)の改修で奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。

広場の右手、堀の向こうに見える隅櫓は、昭和10年に旧二の丸平櫓を復興したもの。 予算の関係でか規模が半分になってしまったそうです。

門を入った正面、奥に見える櫓は銅門。

馬出門をくぐって左に折れたところ。左の門は入ってきた馬出門。正面は内冠木門(うちかぶきもん)。

内冠木門(うちかぶきもん)を入って馬屋曲輪側から。奥に狭間が見えています。 内側の枡形も三方から攻撃できますので、堅固な守りになっています。

銅門(あかがねもん)

平成9年(1997)復元。

関東大震災後に埋められたという手前の堀も綺麗に復元されています。 発掘調査の結果、堀底からは後北条氏時代の障子堀の遺構も見つかったそう。

住吉橋を渡って内仕切門をくぐって枡形へ。

櫓門。二の丸の表門だけあって立派です。

二の丸側から見たところ。特別公開中だったので櫓の中に入ってみます。

銅門の櫓から枡形を見たところ。ここから狙われたら侵入者は逃げられませんね。

櫓のなかでは小田原評定をしていました。

櫓の脇から二の丸方向。奥に天守が見えてます。

二の丸の北側、廃城になるまでこの辺りに藩主が政務を行った「二の丸御屋形」がありました。地震で何度も倒壊しますが都度再建され、幕末には将軍家宿所としても用いられたそうです。昭和4年から平成4年までは小学校がありました。

では本丸に行きましょう。

常盤木橋から本丸東堀を見たところ。江戸時代、本丸の周囲は水堀で囲われていました。 現在は埋め立てられて菖蒲田になっています。

常盤木門(ときわぎもん)

昭和46年(1971)外観復元。

本丸への正面口。小田原城で一番大きな門です。

本丸

ようやく本丸に着きました。天守の手前には、元禄16年(1703)の地震で倒壊するまでは本丸中央には将軍の宿所に使われる御殿がありました。 天守も同じ地震で倒壊しますがこちらは宝永3年(1706)に再建。 しかし、廃城後に破却されてしまいました。 現在の天守は昭和35年(1960)に復興されたもの。鉄筋コンクリートと木造の違いはありますが、最上階に設置された廻縁を除けば、外観は破却前の姿と同じだそうです。

早速天守に入りましょう。

天守最上階より南西方向。正面の山の上が石垣山城。

天守最上階より南方向。中央、海の上にうっすらと伊豆大島が見えています。

天守最上階より東方向。城下。

天守最上階より北方向。小田原駅。

天守最上階より西方向。箱根。

天守最上階には摩利支天が安置されています。

鉄門跡、御用米曲輪

かつて存在した本丸の北側の出入口、鉄門(くろがねもん)跡の石垣。 関東大震災で崩落してなくなりました。 その下に少し見える空間は、鉄門を出たところにあった御用米(ごようまい)曲輪。 武具や天領などから納められた米や大豆を保管する重要な場所だったようです。

本丸南側の滑り落ちた石垣

こちらも関東大震災によって被災したところ。

南曲輪

本丸南下の曲輪。建物が建っているあたり。 かつては本丸との間は水堀で仕切られていました。

小田原城址公園外の遺構

蓮池と弁天曲輪跡

小田原城の北の守り。蓮池と弁天曲輪があったところ。 本丸、二の丸周辺では一番変わっているところです。

八幡山古郭東曲輪

こちらは後北条氏時代の遺構。後北条氏時代はこちらが詰城だったよう。 江戸期は放置されため、建物跡の遺構が良く残っているのだそうです。 今は天守と海が良く見える見晴らしのいい場所。 後北条時代の遺構は、城のまわりを9Kmに渡って囲う「総構」がありますが、 今回は時間の都合で周れませんでした。

箱根口門跡

三の丸の南出入口。三の丸は城の北、東、南を囲うように造られ(西は八幡山)、武家屋敷が建てられていました。

道路を横断するかたちで橋が架かり、渡ったところが枡形。 城の方向に渡櫓門があってその門の右側の櫓台が遺っている様子。

大手門跡

三の丸の東出入口。三の丸東堀に架かる橋を渡ったところに銅門のような枡形門がありました。鐘楼の下の石垣が、渡櫓門の櫓台の遺構だそうです。

幸田口門(こうだぐちもん)跡

三の丸の北出入口。門の形跡は残っていませんが、三の丸と城外を仕切る土塁が残っています。市街地に突然現れる遺構にちょっとびっくりします。

北条氏政・氏照墓所

後北条氏4代氏政と八王子城主だった弟、氏照の墓所。

商店の並ぶ狭い路地にポツンと存在します。小田原合戦で秀吉に降伏したとき、5代当主の氏直は助命され高野山に追放となりますが、この二人は切腹を命じられました。この場所は北条氏の氏寺、伝心庵があったところだそうです。

氏直は天正19年(1591)に赦免され、豊臣大名として復活。その後、北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続しました。

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