チーバくんの鼻の先、千葉県野田市の関宿城に行く

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今日はドライブに良い手ごろな場所を探してGoogleMapを眺めているうちに目に留まった関宿城跡に行ってきました。感想を先に言ってしまうと、ちょっと渋めですが歴史的に興味深い土地で不思議な満足感を味わえました。

関宿城博物館

はじめに関宿城博物館で関宿城と利根川の歴史を勉強しました。お城のかたちをした建物。 ここは江戸川のスーパー堤防の上で城のあった場所から約500m北の地点。

中は入館料200円とは思えないほど充実した展示でした。 ありがたいことに館内撮影もほとんどOKだったので、 学んだ内容とともに以下に少し紹介させていただきます。

鉄道が整備される明治40年以前まで、物資輸送の中心は水運。 関宿は、古くから内陸水上交通の要衝であるとともに軍事的にも重要な拠点でした。 1455年に古河公方・足利成氏の命により梁田持助が配置されて以降、梁田氏がこの地を治めます。 梁田氏は、古河公方一族の内紛を収めて筆頭家臣の地位を築きますが、 関東に進出してきた後北条氏に3度の関宿合戦の末に敗北。1574年に関宿城を明け渡しました。

徳川家康の関東移封後は、家康の異父弟である松平康元が関宿城に入り、関宿藩を立藩。 以後、藩主は8家23代と変わっていきますが、江戸外郭の防衛拠点の役割を担い、代々譜代大名が配されました。

最も治世が長かったのは久世(くぜ)氏。1669-1683年、1705-1871年の約180年間に9人が藩主を務めました。 久世氏は、1563年三河一向一揆の際に宗門側につき家康と対立しましたが、許された後は武田氏との高天神城の戦いなどで活躍した家系。そのなか、慶長14年(1609)生まれの久世広之が徳川秀忠、家光の小姓から家綱の傅役(もりやく)となり、老中まで大出世。寛文9年(1669)に関宿藩12代、5万石の藩主になりました。

幕末の21代藩主久世広周(ひろちか)は、嘉永4年(1851)に老中に就任。安政の大獄に対する井伊直弼の方針に反対して一度退きますが、桜田門外の変後に再任されて安藤信正とともに公武合体運動をすすめ、和宮降嫁を実現しています。

利根川の東遷

チーバくんの鼻の形は上部は利根川、下部は江戸川の流れに沿っていますが、 かつての利根川の本流は、現在の春日部付近を流れる古利根川から中川を経由し、 亀有から綾瀬までの区間は今は暗渠になっている古隅田川を通り、綾瀬川、隅田川から東京湾に注ぐ流れだったそうです。

江戸時代初めに約60年かけて、二手に分かれた一方の流路を締め切り、あるいは開削をして隣に流れる川に合流させながら、最終的に関宿北部の沼から東の銚子方面に流れていた常陸川に接続する大工事を行い、現在の流路に変更されました。本当にすごいですね!!
ちなみに利根川の源流は、群馬県と新潟県の県境にある大水上山(おおみなかみやま)の三角雪渓の雪解け水の一滴からはじまっているそうです。行ってみたいところですが、行き着くのはかなり大変みたい。

こうして関宿は利根川と江戸川の合流地点になり、江戸川の川端には関所も設けられました。 城下には日光東往還という街道も通って、江戸時代はかなり栄えたようです。 しかし、近代に入って道路と鉄道の整備が進み水運が衰退すると、賑わいを失っていきました。

関宿城

さてここからは関宿城の遺構を見ていきますが、 現在の関宿城は本丸の三分の二以上がスーパー堤防に埋もれ、土塁の一端が残るのみです。。

とりあえず博物館に展示されていた縄張り図を確認。

東側から残された本丸の一端を見たところ。奥が江戸川のスーパー堤防です。

南東方向から。周囲は一面田んぼで、二の丸跡も三の丸跡もよくわかりませんでした。。

一応、本丸のなかにも入れますが、内部はただただ雑草が生い茂っていました。 正面の古びた看板には「ごみを捨てるな」の張り紙がしてあってかなり残念な感じです。。

本丸の雑草の中から見た関宿城博物館。

鬼門除稲荷

博物館の東、本丸の方向から鬼門にあたる場所に建つ稲荷社。

久世広之が城主になったときに建立したと伝えられています。

素朴ですがとてもいい雰囲気の神社です。 本丸が残念だったのでちょっと救われた気持ちになりました。

稲荷のそばから博物館が良く見えました。 実際の関宿城の本丸にも、1874年に破却されるまで1671年に建てられた御三階櫓があり、 これが江戸城の富士見櫓を模して建てられたといわれていることから、 博物館も江戸城の富士見櫓を模したかたちで作ったのだそうです。



関宿水閘門

かつて水運で栄えたといわれる土地に来たにもかかわらず、これまで全く川の水を見ていなかったので、 もう少し江戸川のほうに歩いてみました。

川にたどりつくと、そこには関宿水閘門(すいこうもん)がありました。 江戸川流頭部に大正7年から昭和2年にかけて建設された水門と閘門だそうです。

こちらは水門部分。川の反対側に閘門がある(ただし現在は使用されておらず開きっぱなし)らしいのですが、見逃してしまいました。。

北の方向。左にカーブした先にチーバくんの鼻の頭に相当する利根川との合流地点があるはずです。

南の方向。ここから東京の江戸川区まで流れが続いています。



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