岡城は、断崖絶壁の山上の広大な敷地に築かれた総石垣の城。正直来るまでこんなにすごい城だとは思っていませんでした。見どころが多すぎて写真が多くなりますが、どうぞお付き合いのほどよろしくお願いします。
今日は熊本の阿蘇方面から山を越えて岡城にやってきました。正面の岩盤の上に城跡があります。
駐車場のある場所はかつての総役所跡で、裁判所のような施設があったところだそう。
右手の建物で入城のチケットを購入します。
岡城には、室町時代初期の南北朝時代から豊後守護大友氏庶流の志賀氏が居城していました。1586年、薩摩の島津氏が九州制覇を目指して豊後国に侵攻した際、周辺の城が次々に落城していくなかで、17代当主、志賀親次(ちかつぐ)が守る岡城だけは攻め落とされなかったことから、難攻不落の城として全国に知れ渡ったそうです。しかし、1593年、大友氏が文禄の役の際の不手際により改易されると志賀氏も所領を失い、翌年より、秀吉家臣の中川秀成(ひでしげ)が播磨国三木より入城。中川氏によって総石垣の城への大改修が行われました。秀成は関ケ原の戦い後も所領を安堵され、岡城は岡藩7万石の藩庁となり、中川氏が明治維新まで居城しました。
総役所跡から岸壁に沿った道を通って大手門へ向かいます。
大手道。道の右脇に見えるかまぼこ状の石も他の城では見かけないもの。
折れ曲がりながら石段をあがっていきます。
大手門が見えてきました。
石垣の上には櫓門が建っていたそうです。
大手門前からの眺望。山奥に来た感があります。
大手門。柱の穴が残っています。
大手門枡形。
大手門枡形を城の内側から。城の入り口は東、西、北の三箇所あって、そのうち大手門は西の門。
築城当時は東の門が正門でしたが、藤堂高虎のアドバイスにより、こちらを正門に変更したそうです。
古大手門跡。東の門が正門時代の頃の門でしょうか。
古大手門から外側の郭。
朱印状倉跡。
現在地を確認。まずは右のほうにすすんで本丸を目指します。
朱印状倉跡から見た中川但見家老屋敷跡。
中川秀成の子、2代藩主久盛の頃より中川姓を名乗るようになった家老の屋敷があった場所。
中川但見家老屋敷より、谷向こうの中川覚左衛門屋敷のほうを見たところ。
中川但見家老屋敷隣の武具方跡。奥に見えるのは西之丸。
但見家老屋敷の入口。
但見家老屋敷の入口を外側から。
城代屋敷跡。隣の家老屋敷よりも大分狭い敷地。
籾倉跡。
西中仕切跡。
三の丸石垣。100名城スタンプの景色。
三の丸石垣と西中仕切門。
西中仕切跡。
西中仕切跡の石垣。
西中仕切跡の石垣の上からこれまで歩いてきた方向。
西中仕切跡の石垣の上からこれから進む方向。
鐘櫓跡。
鐘櫓跡の上。
三の丸の入り口、太鼓櫓跡を鐘櫓跡の上から。
三の丸に入ったところから見た太鼓櫓跡。太鼓櫓跡の虎口部分は工事中。
三の丸石垣の上から歩いてきた方向。
三の丸跡。右手の石垣は本丸側面の石垣で、左手奥が二の丸です。
三の丸中央には当初、殿舎という藩主が他藩の使者や家臣と対面する建物があったそう。
大火による焼失後は、土蔵が建てられました。
二の丸への入り口。
二の丸への入り口横の、本丸西端の石垣。
二の丸側から三の丸方向を見たところ。
二の丸の空井戸。
二の丸は北側に張り出したL字型の郭で、御殿が建てられていました。
二の丸北端の月見櫓跡。左手の銅像は、地元の作曲家・滝廉太郎。
二の丸東端あった風呂屋付近には現在、休憩所があります。
休憩所の内部。
風呂屋は二階建てで二階部分は本丸に繋がっていたそうで、休憩所も二階に上がっていくと本丸に行くことができます。
本丸東端にある岡城天満神社。中川秀成が入城した際、城内東側にあった天神祠を移転建立したもの。
明治維新の後、城跡は荒廃したため明治43年に城下町に遷座されますが、昭和30年に元の本丸跡に再び遷座されたとのこと。社殿は平成28年に大改修。
天井絵馬は大分県内の日本画家女性3名による制作だそうです。
社殿横にある金倉跡。
金倉跡から東の眺望。お城はさらに東のほうまで続いています。
金倉跡から見た本丸。
本丸南西の三階櫓跡。
本丸西端から西方向の眺望。
先程は風呂屋から本丸に入りましたが、こちらが本丸の正門跡。
今度はこちらから二の丸に戻ります。
下には二の丸入り口の空井戸が見えています。
三の丸を出て太鼓櫓跡の南側の通路を通って本丸西端の三階櫓跡石垣。
本丸の石垣を反対の東端から。石垣の上は御金倉跡があったところ。
東中仕切跡。
現在地を確認。このまま東端の下原門跡まで見ていきます。
東中仕切跡を東のほうから。
米倉跡。
清水門跡。
東の郭入り口。
御廟所跡入り口。
御廟所跡。
御廟所跡から東の方向。もう少し先があります。
下原門。
下原門。
下原門を外側から。
来た道を戻ります。
朱印状倉跡まで戻り、今度は大手門から西側の郭を見ていきます。
石段の上が西の丸跡。石段を上がったところには東門という門があったそう。
西の丸はとても広い曲輪で、さらに石垣で囲われた内側に御殿がありました。
こちらが御殿の正門らしいのでここからあがります。
御殿のあった場所には今は何もありません。
御殿は元々は隠居後の住まいとして建てられたそうですが、後年は政治的な役割を果たすようになったようです。
西の丸西端から眼下に駐車場。
西の丸西端から奥に角櫓。
角櫓のほうから見た西の丸西側の石垣。
西の丸の上から中川民部屋敷跡。
中川民部屋敷跡。
中川民部屋敷下の石垣。
中川覚左衛門屋敷跡から谷越しに三の丸、二の丸、本丸の石垣。
中川覚左衛門屋敷跡から谷越しに中川但見屋敷跡。
中川覚左衛門屋敷跡から谷越しに西の丸。
中川覚左衛門屋敷跡。
近戸門への通路。
中川民部屋敷跡から近戸門への通路上にある門跡。
近戸門跡。家臣や領民の通用口として使用されました。
これで大体ひととおり見て回った感じ。
ここから七曲りと呼ばれるつづら折りの坂道を通って駐車場に戻りたかったのですが通行止めになっていたため、来た道の大手門から戻ります。
賄方跡。
武具方跡。