続100名城:原城(長崎県南島原市)に行く

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鎌倉時代に地頭職を与えられ、室町時代に戦国大名化した有馬氏が本拠の日野江城の支城として築城。 佐賀の龍造寺氏の侵攻、豊臣秀吉の九州平定、関ケ原の戦いを切り抜けて初代日野江藩主となった有馬晴信が、 1599-1604年頃に近世城郭に改修したといわれます。 しかし、晴信は岡本大八事件によって、1612年に斬首され、旧領を引き継いだ子の直純は、1614年、自ら願い出て日向延岡藩に転封。天領となった後、1616年に入封した松倉重政は新たに島原城を築城しますが、1637年に島原・天草一揆が勃発。一揆の要因は島原城築城の際の重い課役と苛烈なキリシタン弾圧でした。 一揆軍は、はじめ攻勢でしたが島原城攻めに失敗した後は廃城になっていた原城に立てこもって抗戦。 しかし、1938年、幕府の総攻撃で落城、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧。
その後、幕府は城を徹底的に破壊し、おびただしい遺体が石垣や建物の残骸の下に埋められたそうです。

有馬晴信は、当初キリスト教と距離を置いていましたが、領地を守るためには南蛮貿易の利益が必要と考え、1580年に改宗。キリスト教を積極的に保護し、家臣や領民の多くがキリシタンになりました。
岡本大八事件は、マカオで起こった日本人殺傷事件に対して、報復として晴信がポルトガル船を焼き討ち。 恩賞に龍造寺氏との争いで失っていた旧領の回復を期待した晴信に、 本多正純の与力でキリシタンの岡本大八が近づいて、家康との間を取り持つと嘘をつき、 晴信から多額の金品を受け取った事件。いつまでたっても恩賞の沙汰がなく、晴信が正純に直談判したことで発覚。 幕府が禁教政策に大きく舵を切るきっかけになりました。

亡くなられたかたは気の毒ですが、島原城を含めて、歴史的背景がとても面白いところです。

案内図を確認。散策は、現在地右下の大手口からスタート。 左右の三の丸、二の丸を見ながら道を上にあがっていき、本丸へ。 帰りは海岸沿いを通って、現在地に戻ります。現在地から本丸までは歩いて10分程度。

大手口跡。現地説明板によれば、出入口の形状はの城内に入った後に直角に折れ曲がる内枡形虎口だったとのこと。

大手口を入ってすぐの左手は、南三の丸のあたり。右奥、少し高くなっているところが東二の丸。 本丸は石垣ですが、それ以外は自然地形を活かした土づくりの曲輪だったそうです。

二の丸、海側。今は広大な原っぱ。

二の丸、陸側。右手のほうが二の丸出丸。その先端付近が島原・天草一揆の、戦いの最前線だった場所だそうです。

さらに道を進むと奥の方に本丸が見えてきました。

本丸手前の空堀跡。

本丸の前まで来ました。。

本丸内の図を確認。本丸正門、埋門、本丸門をくぐり、本丸に。 櫓台跡を見て、池尻口門からそとに出て、最後に本丸の外側をぐるっとまわります。

本丸正門から池尻口門の方向の石垣。往時の石垣はもっと上に高さがあったことでしょう。

それでは本丸正門を入っていきましょう。

門の礎石も確認できます。

門を入って左に折れたところ。武者溜まり。

突き当たりを左に曲がったところに二つ目の門、埋門。

その先に三つ目の門、本丸門。

本丸。

四郎家。天草四郎の家があったところ。遠くに雲仙岳が見えています。

櫓台跡。

櫓台跡からの眺望。

本丸東端に十字架の塔。左端に池尻口門が少し見えています。

天草四郎像。

池尻口門から本丸を出ます。

本丸北側の石垣。

本丸北側の石垣、続き。

石垣を伝っていくと本丸正門に戻ります。

正門のところから西側の石垣を見ていきます。

石垣の向こうは埋門のあたりでしょうか。

正面に櫓台が見えています。

天草丸跡。

帰りは海岸沿いから戻りました。

海の向こうに見える島は湯島。天草、島原のリーダーたちが集って一揆の作戦を練った島です。

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