熊本城の見学は今回が初めて。2012年8月、前回熊本旅行のときは爆弾低気圧と重なってまさかの臨時休園。駐車場の前で係の方から知らされてUターンしたことを今でも鮮明に覚えています。その後、2016年に熊本地震。残念でしたが、約11年ぶりのリベンジです。
熊本地震前に作成された熊本城復元整備予想図。平成になってからもたくさん復元されていたんですね。しかし、現在その姿を見られるのは、国指定重要文化財13棟のうち7棟、復元建造物も15棟のうち7棟だけ。残っているものもすべて破損していて、現時点で修復が完了しているのは天守と長塀の2棟のみです。大変な被害でしたね。。
図の左の空いているスペースがかつての二の丸部分で、今は広場と駐車場になっています。そこから右の部分は現在ほとんどが立入規制区域です。
散策は、二の丸広場から図の外側の縁を時計回りに歩き、下の行幸橋から行幸坂をあがってその先に設けられた特別見学通路を通ります。
緑の部分が特別見学通路(南ルート)です。
それでは散策開始。まず最初は一度二の丸の外に出て、豊前街道・豊後街道を歩くイメージで住江門から二の丸に入り、二の丸御門を抜けていきます。
二の丸の西側に設けられた住江門。
右の石垣の上には、松井山城預櫓がありました。左の石垣は結構崩れています。自身の影響。。
街道が城の中を通っているのも熊本城の特徴の一つ。ブラタモリでもやっていました。
外枡形の門をくぐっていきます。
二の丸に入りました。
二の丸には上級家臣の屋敷が立ち並んでいたとのこと。1755年にはその一角に藩校が建てられたそうです。
実は熊本には3日前から来ていて、熊本を拠点に島原城に行ったり、八代城に行ったりしていました。こちらは着いた日の夜に予習がてら少し散策したときに撮った写真。二の丸の東からは、西出丸の向こうの平左衛門丸の宇土櫓と、その奥に本丸の小天守、大天守が見えます。
昔の写真はこんな感じ。意外と変わっていません。
少し北側に移動して別角度から。
豊前街道・豊後街道に戻って、二の丸御門から二の丸の外に出ます。
熊本地震の影響。。
通路にまとめられている石は崩れた石垣のなかにあった栗石。
二の丸御門を外側から。
絵図で現在地を確認。絵図の範囲全体が城域です。現在地は元々京町という町屋だった区域で、築城の際に加藤清正が町を城の北側に移転させた跡地であることから、古京町と呼ばれていたとのこと。
二の丸御門のところから東に続く石垣は、百閒石垣と呼ばれています。
百閒石垣沿いに豊前街道・豊後街道を少し進むと、二の丸に入る道路とぶつかるのでそこから二の丸に戻ります。往時はまっすぐ進む道は石垣で塞がれており、左に折れたところの埋門から入りました。左に見える石垣の先の監物櫓は解体中でした。
今は埋門(復元)からは入れないので、入ったていで道を進みます。
二の丸北側から空堀越しに西出丸の戌亥櫓跡。
平成15年に復元された櫓は震災後も残っていましたが、石垣修復のため現在は解体されています。
東に進んで土橋を渡り、北大手門から西出丸に入ります。
桝形虎口。両側の石垣は崩れてしまったため、モルタル吹き付けで保護。
西出丸。正面の石垣の上に戌亥櫓がありました。
北大手門を入ったところの左手に加藤神社。主祭神はもちろん加藤清正。創建は明治4年ですが現在地に遷座されたのは昭和37年とのこと。
神社隣より空堀越しに宇土櫓。宇土櫓は重要文化財の現存建築物。壁や床などが破損しながらも倒壊は免れました。これが残ったのは本当に良かったですね。
櫓の建つ石垣も立派。右奥に頬当御門のところに造られた特別公開(北ルート)の通路が見えます。
神社の境内は天守の撮影スポットになっています。
西出丸から内側は加藤神社のところ以外はほとんどが立入規制区域です。
こちらは入ってきた北大手門を出て、棒庵坂を下りながら加藤神社外側の石垣を見たところ。引き続き時計回りに城の外側を見ていきます。
櫨方三階櫓跡の石垣。すごい高さ、すごい迫力。
櫨方三階櫓跡の石垣を下から。
石垣の下から見上げて撮った小天守と大天守。
本丸北東、平櫓(重要文化財)のあった石垣。左手石垣に沿って坂をあがったところに不開門(重要文化財)がありましたが、いずれも震災の影響で解体されています。
北十八間櫓(重要文化財)も解体。
東十八間櫓(重要文化財)も解体です。。
崩れた石垣続きの気分を取り直すべく、熊本大神宮でウメジローの撮影。
須戸口門と平御櫓(復元)。
長塀(重要文化財)。地震直後はここも崩れてしまったようですが、
現在は修復か完了しています。手前の川は坪井川。
通町筋前は、熊本城と熊本市電を一緒に撮れる撮影スポット。
熊本市役所14階展望ロビーから見た熊本城。
天守とその下に見える建物が本丸御殿。その下に5つ並んでいる櫓は重要文化財の東竹の丸の櫓群。左手中央の見切れている櫓が数寄屋丸の二階御広間。
下馬橋(げばばし)と馬具櫓(復元)跡。馬具櫓は震災により解体中。
江戸時代はこの位置に橋が架けられており、そこから城内に入りました。
熊本城の本丸には、明治維新後、陸軍・熊本鎮台の司令部が置かれ、
明治35年、そこに明治天皇が行幸されることになったときに、
現在の行幸(みゆき)橋の位置に架けかえたのだそう。
行幸橋の手前、清正公銅像前も熊本城の人気撮影スポットです。
震災前は黄色いクレーンのところに飯田丸五階櫓(復元)がありましたが、、。
行幸橋の上から、西側の石垣。
飯田丸五階櫓の石垣は修復工事中。
行幸坂(みゆきざか)。江戸時代は南坂と呼ばれていたそう。もっと勾配がきつい坂だったものを明治天皇の行幸にあわせて、天皇の馬車が通れるように盛土して緩くしたのだそうです。
絵図では、左手に見える広い坂が南坂(行幸坂)です。
行幸坂を上がった左手に奉行丸の石垣。南東角が崩れています。
奉行丸は江戸時代役所機能があったところ。この右手、東側に特別公開通路(南ルート)の入口があります。
奉行丸南西角の未申櫓(復元)。
奉行丸の北東には、西出丸への入口である南大手門(復元)がありますが、現在は通行禁止です。
ここまで2時間歩いて、ようやくここから有料ゾーンを見ていきます。飯田丸北西の入口、西櫓御門から東竹の丸、本丸に至る特別見学通路(南ルート)を進みます。はじめに見えてくるのは数寄屋丸南西角、数寄屋丸五階櫓跡の崩落した石垣。
歪んでしまった数寄屋丸二階御広間(復元)。
その先に天守と本丸御殿が見えてきました。梅の木が綺麗でした。
有名な二様の石垣。右の古い石垣に左の新しい石垣が足されて造られたそう。
飯田丸。
飯田丸の下、南の郭は竹の丸。竹の丸から飯田丸へ向かって6回折れ曲がる連続枡形の通路があります。
連続桝形。ここから二様の石垣のところを進む道が天守へ向かう本来の通路でした。。向こうに見えている郭は東竹の丸。
東竹の丸の重要文化財櫓群。
特別公開通路は進路を北側に変えて、本丸南西の石垣。
こちらは通路の反対側、本丸南東の石垣。
本丸御殿(復元)の裏。特別通路は左の方に進みます。
本丸御殿の地下通路、闇り(くらがり)通路。現在は覗くだけ。向こう側からこちらに来るのが本来の進路。
天守前広場に到着。本丸御殿を正面から。
天守前広場から天守(復元)。加藤清正の時代は大天守しかなく、小天守が増築されたのは2代目、加藤忠広の時代だそうです。
地図右上のスペースが現在いる天守前広場。特別公開通路(南ルート)は、左下から右下に進み、そこから上に上がってきました。本来は、中央下の道を通って、大天守下の耕作櫓門から本丸御殿に入るのが正式なルート。なお、帰りは大天守下から左上の平左衛門丸、数寄屋丸櫓門の上を通る特別公開通路(北ルート)を通ります。
小天守下の石段。
小天守地階の穴蔵。耐震補強ばっちり。
加藤清正の跡を継いだ息子の加藤忠広は、2代将軍秀忠の養女(家康の三女・振姫の子)を娶り、将軍家の縁者として遇されますが、1632年に幕府より突如領地を没収され、出羽庄内への配流を言い渡されます。改易の最大の原因は、3代将軍家光が嫌っていた弟、忠長と懇意であったことのよう。代わって熊本城には小倉から細川忠利が入城。以後、11代239年にわたり細川家が熊本を治めました。ちなみに忠利の妻も秀忠の養女(松平信康の娘・登久姫の子)でした。
天守内展示はほぼ撮影OK。日頃、撮影で展示物が劣化するようなものでないかぎり、こうした展示は撮影OKにしてほしいと思っているのでありがたかったです。
天守内に展示のジオラマ。
天守最上階より東。天守前広場。
天守最上階より南。通ってきた特別公開通路(南ルート)が見えます。
天守最上階より西。正面に特別公開通路(北ルート)、右斜め前に宇土櫓。
天守最上階より北。左前方の緑は加藤神社。
耕作櫓門跡、奥に本丸御殿。
飯田丸横の通路からの合流地点。
数寄屋丸前から天守。
平左衛門丸。
平左衛門丸から天守。
宇土櫓(重要文化財)。
数寄屋丸。奥の建物は二階御広間。
数寄屋丸櫓門への通路。
数寄屋丸櫓門跡。
頬当御門跡。
西出丸から南大手門。
西大手門から外に出ます。
二の丸側から西大手門跡。ここが一番格式の高い城への入口でした。
復元の門は解体されています。
奥に見えるのは奉行丸の未申櫓。手前は元太鼓櫓(復元)があったところ。
二の丸駐車場に戻って4時間半にわたる散策は終了です。