続100名城:唐津城(佐賀県唐津市)に行く

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築城者は尾張出身の武将、寺沢広高。秀吉の家臣時代に唐津を拝領し、秀吉死去後は家康に与しました。 築城開始は1602年。築城には九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたともいわれています。

江戸末期の唐津城下町絵図。北の海は玄界灘(唐津湾)で、東の大きな川は松浦川(まつうらがわ)。 本丸のある標高41mの満島山は形からして陸繋島だとわかりますが、繋がっていたのは東側のほうで、築城の際にそちらを切り離して反対の西側に二の丸、三の丸を配したそうです。 二の丸には藩主住居と藩庁が置かれ、三の丸には武家屋敷。その周りの外曲輪に町人地、寺町がありました。 町名には今でもたくさん当時のものが残っているようです。

事前に調べたところによると、唐津城は天守周辺だけでなく、二の丸、三の丸も見学すると面白いということだったので、 今日は三の丸の唐津大明神から散策をスタート。

絵図の本丸、二の丸、三の丸を少し拡大。 本日のコースは、三の丸の真ん中にある唐津大明神から南下して、三の丸と外曲輪を区切る肥後堀(復元)と、そこから東に進んで三の丸辰巳櫓(復元)を見学。 三の丸内を南北に貫く大名小路を北上して二の門から二の丸に入り、二の丸を南側の二の丸小路を通って本丸へ。本丸見学後は二の丸北側の石垣を見ながら三の丸に戻り、三の丸の北の門、埋門(うずめもん)から南下して、唐津大明神に戻ります。

まずは唐津神社(唐津大明神)に参拝。 1602年、唐津城築城に際して寺沢広高が、古くからこの地で祀られていた唐津大明神を現在地に移して、 藩主の祈願所と定めたとのこと。

唐津神社を南に下り、三の丸と外郭を区切る肥後堀。 市役所の南東角に復元されていますが、これはほんの一部で江戸期には石垣と水堀がもっと左右に延びていました。 堀は埋め立てられてなくなっていますが、GoogleMapによれば石垣はここから西側のほうは今でも結構残っているみたい。 見逃してしまいました。

三の丸の南東角に建つ辰巳櫓(復元)。

三の丸辰巳櫓を外側から。櫓は新築ですが石垣は当時のものを修復したらしいです。

何の解説もありませんでしたが、辰巳櫓の内側、大手口の方向に進む道沿いにも遺構の雰囲気が漂う石垣がありました。 こうした石垣がけっこう街中に点在しています。

絵図にも見られる大名小路。三の丸の東側、南北に延びる大通り。

大名小路をまっすぐ進んで突きあたりを右に折れたところに二の丸への入口である、二の門前。

二の門前の橋の上から二の丸堀の北側を見たところ。

南側は松浦川の方向。もとはこの堀のほうが川筋で北側が唐津湾に出る河口だったものを、 築城時に本丸の東側を流れるように流路を変更したそうです。

二の丸小路からは天守が見えますが、唐津城にあったのは天守台だけで天守が建てられた記録はないそうです。 建っているのは昭和41年に肥前名護屋城の天守をモデルに造られた模擬天守。

二の丸小路を進んだ先に二の丸と藩主居館を仕切る石垣が現れました。その南西角が月見櫓跡。 現在、藩主居館跡には早稲田佐賀中学・高等学校が建っています。

月見櫓跡を南東側から。

そのまま本丸に入っていきたいところですが、二の丸小路の反対側に渡って、歩行者専用の城内橋上から本丸全景を撮影。 写真左下あたりに藩主が参勤交代の際、出入に使用していたという船入門があったようですが、今は原状をとどめていないとのこと。

本丸下東側の腰曲輪。

それでは坂口門があったところ通り、すぐ右手の石段より本丸に向かいましょう。

途中、石段を振り返ったところ。

石段の先に総締門。

総締門をあがったところは本丸下段の二ノ曲輪。天守台石垣の上に模擬天守。

櫓門から本丸に入ります。

本丸から見た模擬天守。天守内の展示は新しくとても充実していました。 唐津城を築城した寺沢氏は、2代目堅高が島原の乱の責を問われて領地の天草が没収となり、失意のうちに自殺、無嗣改易になりました。 唐津藩は一旦幕府直轄地になった後、大久保氏、大給松平氏、水野氏と譜代大名が藩主となり、1817年からは小笠原氏が藩主となり、明治維新を迎えます。

小笠原氏は甲斐源氏の一流。戦国時代に武田氏の侵攻によって信濃を追われてからは徳川家康に仕えるようになりました。 1589年に当主となった小笠原秀政は、家康の長男・信康の長女を妻に迎えます。 秀政と嫡男、忠脩(ただなが)が大阪夏の陣で戦死すると、秀政の次男・忠真(ただざね)が本家を継ぎ、 1632年以降は小倉藩主として明治維新まで存続しました。唐津藩の小笠原氏は、秀政の三男・忠知(ただとも)の家系。

天守の上から西方向。右手に唐津湾。正面の学校のグランドあたりまでが二の丸。その奥が三の丸。

天守の上から南方向。正面の川は松浦川。

天守の上から東方向。正面から奥のほうまで続くグリーンのベルトは松原。初代藩主、寺沢広高が築いたものとのこと。 奥の台形の山は鏡山。山の名前は、神功皇后(じんぐうこうごう)が山頂に鏡を祀ったことに由来するともいわれています。

天守の上から北方向。唐津湾と、正面の台形の島は高島。その左は鳥島。

本丸北側の北門跡は立入禁止になっていました。

本丸西側の西門を外側から。

西門口石段は手すりのある階段になっていました。

最初に登った藩主居館横の石段のところまで下りてきました。 石段を登らずにまっすぐ進むと、実は100円で本丸まで行くことができる、斜めに上がっていくエレベーターがあります。 一度乗ってみてもよかったかも。

帰りは「石垣の道」が続く、二の丸の北側を通ります。

藩主居館外側の北西角より。

その先も区画を区切りながら石垣が続きます。振り返りながら写真を撮っていきました。

石垣は二の丸と三の丸を区切る堀の手前まで続きました。

最後に三の丸北側の出入口、埋門の石垣を見学。

埋門から三の丸内を南北に貫く埋門小路。見た感じ左側の石垣が当時のもので、右側は後で作ったもの? まっすぐ進んだ先の右手に唐津神社に隣接する南城内駐車場があり、ここに戻って見学終了。 続100名城のなかでは満足度の高いお城でした。

おまけ:ライトアップされた唐津城と手前に舞鶴橋。

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