続100名城:小倉城(福岡県北九州市)に行く

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九州おさえの地として古くから注目されていた小倉。現在地に最初に城を築いたのは毛利元就。 秀吉による九州平定後、小倉を領した森吉成(毛利勝信)によって織豊系城郭に改修されたといわれています。 現在の城の形ができたのは、関ケ原の戦い後に豊前一国と豊後2郡を与えられた細川忠興の時代。 忠興ははじめ黒田氏の居城だった中津城に入城しました、1602年から7年かけて小倉城を改修し、こちらを居城にしました。 1632年、加藤氏の改易に伴い細川氏が熊本に転封になると、小笠原氏が入城して、そのまま幕末に至りました。

細川氏と小笠原氏は、細川氏に変わり藩主となった小笠原忠真の妹が、前藩主細川忠利の妻という関係。 小笠原忠真とその妹の母親は徳川家康の長男・元康の娘。細川忠利の母親は明智光秀の娘・細川ガラシャ。 何ともすごい家系です。

ではまず絵図を確認。城下町ごと堀で囲んだ総構のお城です。 赤枠の内側がおよそ二の丸と本丸の部分。そのなかの一番内側の堀の内部が現在史跡になっているところです。

絵図の赤枠部分を現在の地図にしたもの。 散策は、真ん中左側のPマーク、往時は二の丸、松本清張記念館の北隣の駐車場からスタート。 そこから堀の外側を見ていって、東端の虎ノ門口より入城。 中央に見える大手先門跡、大手門を通って、本丸に入ります。

駐車場脇の西の口門。本丸に入る門としては裏口にあたる門。 今日は表から行きたいので、ここからは入らずに堀沿いを歩きます。

西の口門の橋の上から北側の堀。

西の口門の橋の上から南側。石垣の上は松の丸。こちらも往時は水堀でした。

西ノ口門から堀の外側を北に歩いたところの、本丸北西の石垣。左手に見える石垣は北の丸の石垣。 北の丸と本丸の間にはかつて多聞口門という廊下橋の門がありました。

北の丸の石垣を北西角から。北の丸には、奥向きの御殿である北の丸御殿が建てられていました。

北の丸は現在、八坂神社の境内になっています。

北の丸と繋がる東側の郭の間から天守の正面が見えました。 天守は細川氏時代に建てられましたが、1837年に焼失。 今あるのは昭和34年に建てられた復興天守。 築城当時の天守は最上層以外に破風のない珍しいデザインだったそう。 再建時もそうしてくれたらよかったですけどね。

北の丸の東隣の郭には西に下台所、東に下屋敷、南に厩がありました。 下台所と下屋敷の間に架かる大きな橋は絵図にはなく、改変によって造られたもの。

虎の口門は、大手門、西の門と並ぶ正門。ここからお城に入りますが、 その前にもう少し外側の石垣を見ていきます。

下屋敷の郭を北東角から見たところ。かつて今自分が立っているところは川で、石垣は川と接していました。

こちらの紫川が今よりも城に近いところまで来ていました。

厩のあったあたりは今は市役所。城の東側は、堀も埋め立てられて石垣もなくなり原型をとどめていませんが、 郭や堀の境界が地面に示されていました。

それでは虎の口門から中に入ります。正面の大きな石が目につきます。

門を入って右に折れたところ。

下屋敷は現在、庭園(有料)になっていますが、昔を偲ぶような感じではなさそうなので今回はパス。

本丸北東角を外側から。天守撮影スポット。

そのまままっすぐ南にすすんだところが大手先門跡。

大手門から本丸へ。

大手門を右に折れて。

左に少し曲がった右手に次の槻門(けやきもん)が見えます。

槻門は藩主や家老のみが通行できた門だったそうです。

右に折れて

その先が本丸御殿のあったところ。

本丸御殿跡。

附櫓の下の石垣が少し赤いのは火災の痕。これは天守が焼失した時のものではなく幕末のものらしいです。 小倉藩は、1866年、第二次長州征討のときに長州藩と戦い、長州藩の攻勢の前に小倉城から撤退。 その際、自ら城に火を放ったのだそう。 長州征討は高校で勉強してもこういうエピソードは知らなかったので驚きました。

本丸北側の多聞口門。





角に着月見櫓の石垣。上に載っているのは城の遺構ではなく元漬物屋さんの建物。

本丸北側の堀。

北の丸の八坂神社。昭和9年に遷座。

本丸に戻って、南の鉄門。

鉄門を反対側から。中老以下一般武士が通行した門。後年、幅を広げたそうで左半分が往時の石垣。

鉄門の左手には最初に外側から見た西の口門。一般武士はここから鉄門を通って本丸に入ったよう。

鉄門の右手には井戸跡。

その南側には書院があった松の丸。

松の丸の石垣を外側から。手前の芝生のところは水堀でした。

最後にそこから東に進んだところ、勘定所があったスペースの石垣を見学。 自分が立っているところは水堀でした。石垣に沿って進むと市役所のほうに行きます。

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