秀吉による九州平定後、豊前8郡のうち6郡を与えられた黒田官兵衛が中津川河口に築城。
黒田氏が関ケ原の戦いの功で筑前に移ると、細川忠興が豊前一国、豊後2郡の領主として入城。
忠興は中津城と毛利勝信の居城だった小倉城を改築。小倉城に藩庁を移し、中津城を自身の隠居城にしました。
1632年、細川氏が加藤氏の改易に伴って熊本に移ると、小倉城に小笠原忠真が入城。
中津城には忠真の甥・長次が入城して中津藩が誕生します。
中津城は、1717年、奥平昌成が丹後宮津より移ってからは奥平氏の居城となり、10代目のとき明治維新を迎えました。
駐車場の敷地は本丸のなかです。
駐車場の西隅にある「松の御殿」の説明板。
松の御殿跡に明治16年に建てられた中津神社。御祭神は素戔嗚尊、応神天皇、仁徳天皇ほか13柱。
車でナビに導かれるまま本丸に来てしまいましたが、本当は大手門のほうから歩いて登城したかったので、
一度本丸を出て、中津川の土手のほうから南をまわってお城の東側に行くことにします。
お城の西側を流れる中津川。写真の奥、北側が河口の方向。
南を向いて土手からお城のほうを眺めると、石垣の上にすっぽり乗っている建物がありました。
有名な銭湯らしいです。石垣は本丸の南西隅にある水御門の櫓台。
その先に続く石垣は、本丸の南側に配された三の丸の石垣。こういう痕跡が好き。
昔は土手なんてなかったでしょうから直接川と接していたのでしょう。
そのまま南に進んで土手を下りたところに、城下町外堀・南西隅の城戸口、小倉口がありました。
小倉口説明板。
堀はだいぶ狭くなっていますが、一応残っています。
小倉口から一番近い三の丸への入口、西門。枡形虎口だったことがわかります。
西門の案内板。中津城の案内板はどこのも地図付きでとてもわかりやすいです。
先程中津川の土手から見た水御門。
このあたりから堀に海水を引いていて、干潮満潮によって堀の水位が変わっていたのだそう。
中に入れば本丸。
最初の場所なので、ここからもう一度出て、本丸南面の石垣を見ていきます。
本丸南面の石垣。石垣の奥が水御門の場所。
本丸南面の石垣。東方向。
本丸南面の石垣。東端。
明治期に本丸南面の石垣を壊して造った道。来るときはこの道を通って駐車場に入りました。
三の丸東端まで移動して、こちらが大手門跡。
今はまっすぐ道が延びていますが、往時は桝形虎口だったので正面は石垣で塞がれていて、
少し先を右に折れたところに門がありました。
大手門の説明板。門は説明板の後ろにある現在は保育園の敷地内にあったようです。
門をくぐったていで保育園の脇の道を進むと、黒門跡の表示がありました。
黒門から先が二の丸だったところ。地面に礎石の痕跡がありますが、
説明板によると往時の場所とは少しずらされているみたい。
黒門跡を曲がったところ、目の前に本丸への正門だった椎木門がありました。
この門も往時は桝形で、入ったところを右に折れる構造だったようです。
椎木門の横にあった中津城の説明板。大変細かくわかりやすい説明で、
これを書いたパンフレットを作ってほしいと思いました。
椎木門をくぐって本丸に入ったところ。絵図を見ると枡形虎口を入った正面に曲線の石垣が描かれており、
その先は左に曲がっていかないと奥に中に入っていけない構造だったことがわかります。
ただ、幕末の絵図ではその石垣に何か所か穴があけられていて、
曲がらなくてもよいように変更されていたそうです。
説明を見ていなければ全然わからないことですが、
この椎木門を入ったところの右側にある石垣がその曲線の石垣の一部で、
この通路がそのときに空けられたものだそうです。すごい。
本丸には、往時、びっしりと御殿が建てられていたようですが、現在は手前が広い駐車場で、奥に5社の神社が立ち並んでいます。神社の中で個人的に参拝したかったのは、城井(きい)神社。黒田氏以前の領主、城井鎮房(しげふさ)が祀られています。城井氏は鎌倉時代からの領主でしたが、黒田氏と折り合いが悪く、鎮房は争った末に黒田長政によって中津城内で誅殺、一族も殺害されてしまいました。長政は以後、中津城に現れる鎮房の亡霊に苦しむようになり、霊を鎮めるために祀ったのが神社創建の由来。
こちらは、奥平氏3代、定能(さだよし)、信昌、家昌を祀る奥平神社と天守。
奥平氏は長篠の戦いのとき長篠城を守ったことが有名。
徳川家との関係も深く、信昌の妻は家康の長女・亀姫。
天守は、昭和39年に奥平氏の子孫が中心となって建てた模擬天守。山口の萩城にあった天守がモデルらしいです。
江戸時代には天守はなく、ここには普通の隅櫓が建っていたとのこと。天守内の資料館は昭和の雰囲気が漂っていました。
最後に東、北、西側の本丸石垣を見て回ります。
椎木門手前から、本丸東の石垣。
本丸北東角より模擬天守と手前の薬研堀。
本丸北側の石垣は中津城の有名な見どころ。右が黒田氏時代の石垣で左が細川氏時代の石垣。
中津川の土手上から見た本丸北側。
本丸西側石垣。昔は川と接していたところ。このあたりの石垣も黒田氏時代のものだそうです。
鉄門跡。現在は神社の建物が建つ奥の櫓台の上にはかつて三重の櫓が建っていて、
それが天守の代わりだったようです。櫓のすぐ手前のところに昔は入口がありましたが、現在は塞がれています。