続100名城:宮崎県宮崎市の佐土原城(さどわらじょう)に行く

  •  
  •  
  •  Category:

佐土原城は、戦国時代に日向国の大半を支配し、伊東家の全盛時代を築いた伊東義祐(よしすけ)が居城した城。江戸時代には薩摩島津家の支族である佐土原島津家が藩主の佐土原藩の藩庁だった城です。 佐土原藩は石高30000石(のち27000石)、藩域は現在の宮崎県新富町の全域と西都市、宮崎市の一部でした。

佐土原藩は明治2年に居城を広瀬(佐土原町下田島)に移しており、廃藩置県で藩がなくなる2年前に佐土原城は廃城になりました。当時の建物は何も残っておらず、御殿があった場所には平成5年に鶴松館と名付けられた武家屋敷が復元され、佐土原歴史資料館になっています。

佐土原は平安時代、宇佐八幡宮(豊後国)の荘園があった地で、鎌倉時代からは伊東氏が400年余りに渡って治めました。伊東氏の時代から江戸時代初期までの佐土原城は、資料館の背後にある標高70mの山全体でした。
伊東氏は1572年の木崎原の戦いで島津氏に大敗北を喫して権威が失墜。1576年には、城を捨てて豊後に逃亡してしまいます。1577年、島津氏は豊後から進行してきた大友氏を耳川の戦いで破り、日向国を完全に掌握。島津家当主・義久は、日向国の統治のため、弟の家久を佐土原城に入城させました。島津氏は1586年から87年にかけて行われた秀吉の九州征伐で敗れますが、その後、家久の子・豊久が秀吉から佐土原領主に任命され、城主になりました。
1600年、島津豊久は関ケ原の戦いに西軍として参加。当時の島津家の当主・義弘を守って討死します。佐土原は一時幕府領になりますが、交渉の結果、1603年、島津一族の有力者だった以久(もちひさ)に与えられ、佐土原藩を立藩。以後、藩は廃藩置県まで存続しました。
1611-1612年、2代藩主・忠興のときに山頂部に天守などが建てられましたが、1625年には麓に居館を移し、山城部分は破却されました。

資料館のなかは撮影禁止。館内には、昭和35年に、今年85歳になられる昭和天皇の5女、貴子さまが佐土原島津家第14代当主の島津久範の次男・久永氏と結婚されたことに関する展示もありました。

城巡りのメインは山城部分の散策。麓から山上の本丸まで往復40分程度ということで、散歩するには丁度いい位の距離です。

資料館の裏、左手を進んだところにある大手道入口の看板。ここから山城を見学していきました。

大手道の看板を進み右に折れたところ。シラス台地を削ってつくられた大手道の入口は、城跡パンフレットの表紙にもなっているこの城の写真撮影ポイントです。

一番南の曲輪、松尾丸への分岐点。一昨年の台風被害の影響か、松尾丸の方の道にはロープが張られていて進めませんでした。ただ、一年前は大手道も通れないところがあったみたいなので、これでもよかったです。

パンフレットに堀切と説明があったところ。

南の城という曲輪との分岐点。ここも南の城への道にはロープが張られていました。素直に本丸のほうに進みます。

本丸虎口の入口。

虎口入った先に、、

本丸。

本丸の北端に天守台跡があります。

天守台が確認されたのは、平成8年の発掘調査とのこと。割と最近なんですね。

天守台跡を北側から。

天守台北側の道を下りて、城の中央部にある登城路、中の道から麓に戻ります。 こちらはその途中にある曲輪。

中の道の虎口。崖面に門を建てたほぞ穴が残っています。

麓に戻ってきました。中の道の入り口。

御代官所跡。奥に資料館の裏手が見えています。

資料館裏手の御厩役所跡。奥に小さく大手道の入り口が見えます。

関連記事