日本100名城・秋田県秋田市の久保田城に行く

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江戸時代、久保田藩主の佐竹氏が12代270年に渡って居城した城です。 現在は本丸と二の丸部分が千秋公園として整備されています。

現在の公園の絵図と「正保城絵図 出羽国秋田郡久保田城画図(国立公文書館デジタルアーカイブ)」から久保田城の中心部を抜粋したものを並べてみました。 見比べると本丸・二の丸の曲輪がそのまま公園になっているのがわかります。 ただ堀はほとんど埋められていて、内堀は東の下半分と南の左側がわずかに残る程度。 外堀も南西の角がL字型に残っているだけです。
現在の図の南東端、交差点の角にかつては大手門がありました。江戸時代は大手門から北に進み、黒門から二の丸へ入り、表門から本丸に入るのが正式な登城ルートだったそうで、それに沿って散策することにしました。

久保田町交差点の角が大手門跡です。大手門を入ったていで、そのままオレンジの建物の方向にまっすぐ進んでいきます。

とその前に、左手に残る大手門前の外堀を見ておきます。

大手門から北にまっすぐ進んでいったところに残る二の丸東側の内堀。

その先に、二の丸に入る土橋が見えてきました。

唐金橋跡。立派な土橋ですが江戸時代は木橋が架かっていたようです。

橋を渡ったところにかつては黒門がありました。

鍵形の通路を抜けたところが、

二の丸です。写真中央、土塁の上に本丸の表門が見えています。

二の丸跡。左手奥にみえる木々の後ろのほうまでがその範囲で、結構な広さがあります。 ここに見える広場部分は、能や踊りの見物のため町人に開放されることもあったそう。

長坂の石段を上がって本丸に向かいます。

久保田城は土造りの城ですが、このように土塁下部には石垣も使用されています。

坂の途中に長坂門がありました。

本丸表門(一の門)。2001年に木造復元。

表門の手前にある御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)。 これが城内にある唯一の現存建築物。

表門の石段から見下ろしたところ。



表門を本丸に入ったところから。



本丸御殿の玄関があったあたり。

大広間があったあたりに鎮座する八幡秋田神社。初代藩主・佐竹義宣(よしのぶ)を始め歴代藩主を祀る「秋田神社」が、佐竹氏の氏神である八幡神社を合祀してできた神社とのこと。

最後の藩主、12代・佐竹義尭公の銅像。佐竹氏は、平安時代後期、河内源氏2代目棟梁・源頼義の三男で新羅三郎(しんらさぶろう)とも呼ばれた義光の孫にあたる源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着定住し、「佐竹冠者」と称したのが始まり。佐竹氏18代義重・19代義宣の代には、常陸国を統一し太田から水戸へ進出しました。豊臣政権下では、54万8000石の大大名となりますが、関ケ原の戦いで東西両軍に対して明確な態度を示さなかったため、戦後出羽国秋田へ国替えとなりました。

本丸背面(西側)に土手を切ってつくられた埋門。

門は西曲輪の兵具蔵に通じていたとのこと。

本丸背面、土手の上に築かれた多門長屋跡。

本丸北西端の隅櫓跡に、平成元年に造られた櫓。 往時の櫓は二重櫓だったそうですが、現在の櫓はこれに展望室をつけて三重四階の櫓にしたとのこと。 時間が早かったため中には入れませんでした。

本丸北側にある帯曲輪門跡。

門の先にある本丸下の帯曲輪。

下の二の丸とは結構な高低差があるのがわかります。

本丸東側の裏門。

裏門の石段を下りて二の丸に戻ります。

石段の上から二の丸。二の丸の北側には馬場や金蔵があったようです。

一枚目の図は、二の丸の南側、長坂の石段近くにあったもの。南端の佐竹史料館は改築中でした。 松下門から帰ります。

松下門跡。今は何もないですが復元の可能性もあるみたいです。

坂を下った先にあきた芸術劇場の建物が見えています。

坂の西側に残る内堀。

現在地の地図。

中土橋通りから中土橋門跡。

大手門の堀。

穴門の堀。

中土橋門跡を南方向から。

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