「江東区VS墨田区!ジグザグ区境の謎とは?」のキャッチコピーに惹かれて、
昨年12月に、まいまい東京さんの江東区清澄から墨田区両国周辺の名所旧跡を訪ねて歩くツアーに参加しました。
楽しいツアーでしたがブログを書かないうちに記憶が薄れ・・。
今日は復習も兼ねて、ツアーでまわったところを中心に町歩きをしてきました。
小名木川
清澄通りの高橋(たかばし)という橋の上から町歩きスタート。 下を流れる小名木川は、隅田川と旧中川をつなぎ、江東区を東西に横断する全長約4.6Kmの人工河川です。 下の写真は下流にあたる、西の東京都心の方向を撮ったもの。
造られたのは、徳川家康が関東に入国してすぐの1590年頃。
当時の江東区は広大な干潟が広がっていたと考えられており、江東区の開発は小名木川の建設からはじまりました。
関東内陸・東北方面の物資を江戸に輸送する重要な水路として、明治以降も、鉄道網が整備されるまで利用されました。
深川神明宮
次に訪れたのは、高橋から北へ徒歩5分のところにあるこちらの神社です。
小名木川の完成後、その北岸は干拓が行われて深川村となりました。
ここは深川村の開発者である深川八郎右衛門の屋敷があった場所で、屋敷内にあった小さな祠が神社の起源です。
慶長元年(1596)、鷹狩りにやって来た家康に対し、八郎右衛門が「まだ住む人が少なく地名が無い」とこたえたところ、
家康が姓を地名にするよう命じたことが、深川の地名の発祥といわれています。
社殿の前は、節分の豆まきの準備がされていました。
本所深川絵図(安政2年出版・抜粋)
ここでこの周辺を描いた江戸時代の地図を確認しましょう。 少し見づらいですが、江東区と墨田区の境界を緑色の線で書き込んでみました。 真ん中少し下に描かれている、横一文字の川が小名木川です。 今日のスタート地点である高橋と先ほどの神明宮にも印をつけておきました。 小名木川と平行に流れる地図の一番上にある川(竪川)の間にh形の堀がみえます。 南北に流れる部分が六間堀、かぎ型に折れ曲がったところが五間堀で、そこにこれから向かいます。
2つの堀は昭和のはじめに埋め立てられてしまいますが、区境としてその痕跡をとどめています。
ツアーの「ジグザク区境の謎」の説明はこの箇所だけでしたが、六間堀から隅田川方向にかけての階段状に折れ曲がっている箇所も気になりました。何かわかることがないかと地図を目を凝らしてみたところ、隅田川の横の赤いエリアに「八幡宮御旅所(おたびしょ)」と書かれているのを発見。八幡宮は門前仲町にある富岡八幡宮のことです。この部分は深川の八幡様が拝領した土地だったので深川(江東区)に含めることにしたのではないか。その他の凸凹の場所も、江戸時代の町の区割りが元になっていると推察しました。
六間堀跡
では六間堀の跡を辿ります。 下の写真は現在の新大橋通りで、江戸の地図では六間堀に架かる「北ノハシ」があったところ。
今は堀だった場所にも住宅が立ち並んでいますが、道路の盛り上がりから下に川があった感じが伝わってきます。
「北ノハシ」の脇の、かつては六間堀のなかだったところにある「新大橋三丁目児童遊園」から南の方向を見たところ。
六間堀の名前は幅が六間(10.8m)だったことからつけられました。
児童遊園から北方向は、路地になっているので進んでみましょう。
広かった堀も今は人が一人通れるくらいの狭い路地。それでも痕跡と思うとわくわくします。
路地はこの先で2手に分かれます。六間堀はまっすぐ進んでいった方向に続き、
右に折れる方向は、六間堀と区別して五間堀と呼ばれていました。
ここがちょうど五間堀と接続していた場所で、写真は五間堀の方向を向いて撮ったもの。
江東区と墨田区の区境にもなっている場所で、右の建物は江東区、左に見える小さな公園は墨田区です。
ここから五間堀を辿ります。
五間堀跡
下の写真は現在の清澄通りで、江戸の地図で五間堀に架かる「弥勒寺ハシ」があったところ。
六間堀の北ノハシ同様、ここも下に川があったことを感じられるような道路でした。
五間堀公園
五間堀を辿って清澄通りを横断した先は江東区の「五間堀公園」になっています。
公園の説明板。公園の区域は、現在はすべて江東区になっていますが、昭和17年に堀を埋めて開園した当時は、ちょうど公園の真ん中に江東区の墨田区の境界があったとのこと。
五間堀の説明板。
五間堀公園を反対の東端から見たところ。堀はまだ先まで続いていましたが公園はここまで。
道路の継ぎ目のところをよく見ると江東区と墨田区の境界標がありました。
こちらは公園の先の道路。アスファルトの継ぎ目が境界標に沿ってあるのが面白いです。
ガードレールの模様の違いで、今いる場所が江東区か墨田区かも見分られます。
境界標をアップで。
大久保稲荷神社
五間堀が直角に折れる角に建つ神社。
五間堀の角にはかつて旗本の大久保豊後守の屋敷がありました。
何も説明はありませんでしたが、名前から関係のある神社なのでしょう。
弥勒寺
清澄通りで見た弥勒寺橋跡の名前の元となったお寺です。 読んだことはありませんが、池波正太郎の鬼平犯科帳によく登場するそう。
慶長15年(1610)に小石川鷹匠町に創建され、元禄2年(1689)に現在地である本所に移転してきた真言宗の寺院とのこと。
その当時はかなり大きなお寺だったようです。このあたりは東京大空襲で大きな被害を受けていて、
境内には供養のために建てられた観音聖像などがありました。
長くなってきたので今回はここまで。次回に続きます。。