深川と本所の境界の堀跡を辿りながら、名所旧跡を訪ねてきました(その2)竪川~吉良邸跡~回向院~野見宿禰神社~徳山稲荷神社ほか

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前記事の続きです。 今回は清澄通り周辺を北上しながら本所(墨田区南部)の名所旧跡を訪ねます。

嘉永新鐫本所絵図(嘉永5年出版・抜粋)

はじめに江戸時代の地図(1852年)を確認します。左の大きな川は隅田川で、左下にちらっと見えているのが両国橋。 地図の一番下のところを横一直線に流れている川が、前記事の「本所深川絵図」の一番上にあった竪川です。

本所周辺はもともと荒蕪地で、明暦3年(1657)の大火をきっかけに開発がはじまりました。 江戸市中の3分の2を焼失し、10万人以上の死傷者をだしたこの火事の後、 幕府は隅田川に両国橋を架け、隅田川東岸に江戸の街を拡大していきました。 白色のところが武家地で灰色のところが町人地。碁盤目状の道路や運河は現在にも引き継がれています。 これからまわっていくところを地図上に紫色の線で囲いました。

竪川

西の隅田川と東の中川を横一文字に結ぶ人工河川。明暦の大火から2年後の万治2年(1659)に起工されました。

二之橋のそばから西の方向をみたところ。現在は全域、首都高速7号線が上を通っています。

吉良邸跡

赤穂浪士討ち入りの現場。両国駅から南へ400mほどのところにあります。 昔はテレビで忠臣蔵の時代劇をよくやっていましたね。。

屋敷は東西134m、南北63m、2550坪の広さがあり、上の写真の車が2台停まっているところが屋敷の南東角でした。 吉良邸はもともと江戸城の呉服橋門内にありましたが、赤穂藩主浅野内匠頭が元禄14年(1701)3月14日に起こした刃傷事件の後、 9月3日にこちらに移転してきました。赤穂浪士が討ち入るという噂がたち、近隣の大名屋敷から苦情が出たためでした。 それから1年3か月後の元禄15年12月14日、本当に討ち入りが起こってしまいました。

本所松坂町公園

現在、吉良邸跡として残るのは29.5坪、当時の1/86のスペースです。

忠臣蔵ではすっかり悪役の吉良上野介ですが、領地があった愛知県の三河・吉良では評判の良い殿様だったと言われています。

討ち入りの日の前日に雪が降り、浪士たちは足音が吸収されて通常よりも静かに屋敷に接近できたといわれています。 元禄15年12月14日を西暦にすると1703年1月30日。たしかに東京で雪が降ってもおかしくない時期ですね。

前回の記事で今日の町歩きは、昨年12月に参加したまいまい東京さんのツアーの復習も兼ねていると書きました。 ツアーの日が偶然赤穂浪士討ち入りの日(12月14日)と重なり、当日は座像のところにお供え物がたくさん並べられていました。



イベントも行われていて大賑わい。振る舞い酒も頂けました。超ラッキー。

討ち入り後、吉良邸は没収されて敷地は町屋になりました。後年、ここに「葛飾北斎」も一時期住んでいたようです。 北斎は、世界規模で最も有名な墨田区出身者でしょう。

回向院(えこういん)

大火のあった明暦3年(1657)、4代将軍徳川家綱の命により、犠牲者となった多くの無縁仏を供養するために建立されました。

現在の正門は、国道14号(京葉通り)沿いの北側にありますが、これは太平洋戦争後に再建された門で、江戸時代は西側に門があったそうです。 両国橋も現在の位置より南にあり、橋を渡った正面に回向院の正門があったとのこと。 いま以上に両国のランドマーク的な施設だったのでしょう。ちなみに本堂は現在も当時と変わらず江戸の方向である西向きに建っています。

回向院はその後、江戸時代に手厚く葬ることを認められなかった死罪受刑者や水死者、宝永の富士山噴火(1707)や安政大地震(1855)、関東大震災(1923)などで亡くなった無縁仏も埋葬するようになりました。

迫力ある供養塔が立ち並んでいます。

鼠小僧次郎吉の供養塔。前にある石を削って財布にいれると金回りが良くなるのだそう。 右奥には寛政5年(1793)に、老中・松平定信の命によって造立されたという「水子塚」もありました。

犬や猫、小鳥などさまざまな動物の慰霊碑もあります。飼い主さんの想いが伝わってきました。

力塚は、昭和11年(1936)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立した碑です。

大相撲の起源は、戦国時代以降全国各地で行われていた、寺社などの建立・修築資金を集めることを目的とした勧進相撲ですが、 勝敗等をめぐってしばしば喧嘩口論がおこったため、江戸幕府は慶安元年(1648)に大々的な禁止令を出しました。 貞享元年(1684)7月、深川・富岡八幡宮境内での興行から再び許可が下りるようになりました。 富岡八幡宮が江戸勧進相撲発祥の地といわれる理由です。 この許可には、当時開発が進められていた深川、江東地域の市街地活性化の狙いもあったとされます。
その後、宝暦年中(1751~64)に、春・江戸、夏・京都、秋・大坂、冬・江戸という興行体制が固まっていきました。 興行地は当時、固定化されておらず、富岡八幡宮をはじめ、浅草蔵前八幡や芝神明社などで開催されました。 回向院で初めて開催されたのは明和5年(1768)。徐々に開催が増え、天保4年(1833)からは定場所となりました。 両国に国技館があるのは、こうした経緯から。

相撲好きなので多めに尺をとりました。。

旧国技館跡

現在の両国国技館は実は2代目で、初代国技館は回向院の東隣、現在、両国シティコアというオフィスや住宅、映画館などの複合施設が建っている場所にありました。駐輪場になっている中庭には国技館時代に土俵があった場所を示すタイルが張られています。

明治42年(1909)竣工。戦後GHQに接収され、最後の相撲興行は昭和21年(1946)11月場所とその後に行われた双葉山の引退披露だったそうです。 接収解除後、相撲協会はここを売却し、蔵前に新国技館を建設。現在の両国国技館で相撲が行われるようになったのは昭和60年(1985)1月場所からです。
旧国技館は、日大講堂として使われた後、昭和58年(1983)に解体されました。

榛稲荷神社(はんのきいなりじんじゃ)

両国駅の南側、清澄通りを少し入ったところにある神社。 江戸時代、ここに馬術の訓練をする馬場があったそうで、その傍らに祀られていた神社だそうです。

晩年の葛飾北斎が娘の阿栄(おえい)と一緒に住んでいた家が脇にあったということで、名所になっているようす。

津軽家上屋敷跡

現在、区立緑町公園とすみだ北斎美術館の建っているところに、かつて弘前藩主津軽家の上屋敷がありました。 東は野見宿禰神社、南は現在の京葉道路のところまで8000坪の広大な敷地があり、表門は京葉道路のほうにあったそうです。

本所・深川地域に大名の上屋敷は珍しいですが、面影は何もありません。

野見宿禰神社

日本書紀に登場する相撲の神様、野見宿禰(のみのすくね)を祀る神社。 明治17年(1884)、津軽家上屋敷の跡地に創建されました。



日本相撲協会が管理していて、横綱に昇進した力士が最初の東京場所の前に土俵入りをするのだそう。

歴代横綱碑。



高砂部屋

神社が創建された当時、神社の東側に高砂部屋があり、初代の高砂親方が創建に尽力したそうです。 現在の部屋は墨田区石原に移転していますが、今日、町歩きしている間に偶然見つけました。

現在の親方は8代目、モンゴル出身、元関脇の朝赤龍です。

江川太郎左衛門屋敷跡

津軽家上屋敷の西に隣接する場所に、江戸幕府の伊豆韮山代官・江川氏の屋敷跡があります。 太郎左衛門は代々称した名前で、有名なのは幕末の36代目、英龍(ひでたつ)。東京湾のお台場や韮山反射炉を築造した人物だそうです。 この人は日本で初めてパン(乾パン)を作った人でもあり、初めて焼いた天保13年(1842)4月12日を記念して、4月12日はパンの日なんですって。

現地にはここがジョン万次郎新婚の地とも書かれていました。万次郎は漂流からアメリカに渡り、帰国後は英龍の配下となりました。 江川氏の屋敷内にあった長屋に住んでいたそうです。英龍の仲介で結婚していて、それで新婚の地ということのよう。

徳山稲荷神社

清澄通りと蔵前橋通りの交差点近くにあるこちらは、初代本所奉行を務めた徳山五兵衛重政の屋敷跡に建つ神社です。

明暦の大火の後、幕府は本所深川地域の堀の開削、湿地の埋め立て、架橋を担う本所奉行を設置し、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門を任命しました。現在も残る北十間川、大横川といった堀はこの時期に造られたもの。重政はその功によりこの地に屋敷を賜りました。 神社はもともと屋敷内に祀られていた稲荷と重政の死後、御霊を合祀したもの。

浅草(おまけ)

本所の散策は徳山稲荷で終了ですが、12月の街歩きツアーのゴールは浅草駅だったので、最後に浅草まで行きました。

駒形堂

浅草寺発祥の地に建つお堂。

生物の守護仏である馬頭観音を祀っています。

銀座線浅草駅四番出入口上家

現役の歴史的建造物。

格子に「地下鉄出入口」の文字があしらわれています。

駒形橋から東京スカイツリー

ほぼ満月の月が綺麗でした。

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