伊佐須美神社と会津若松城

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今年のお盆休みは、家族での初めての長距離ドライブ旅行を計画中です。
その前哨戦として、少し遠くの会津まで日帰りドライブして来ました。

5時起きで家を出て、途中那須高原SAで朝ごはん。9:45に最初の目的地、伊佐須美神社に到着。

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)

全国一の宮巡拝会が「岩代国新一宮」として認定した神社。元々一宮制度があった頃は「陸奥国二の宮」でした。
「岩代国」は、戊辰戦争終結直後に陸奥国より分立した日本の地方区分の国の一つで、一の宮制度があった頃にはありませんでした。

立派な楼門は、わりと新しく平成元年造営。楼門には白い布が下がり、目隠しがされ、通行できないようになっています。ここは神様が通る門とされ、かつては門の外から参拝するのが正式な参拝のしかただったようですが、今は門の脇の入り口から中に入ることができます。ところが、中にあるはずの拝殿と本殿は、2008年10月に火災で焼失。いまは仮社殿が建てられています。
新たに建てられる予定の新社殿は、かつての出雲大社のような高さ32mの壮大なものを計画中なんだとか。凄すぎです。
楼門を入ってすぐ、一匹の白い猫に遭遇しました。その後、仔猫も出てきて、すっかり「猫撮り」にはまってしまいました。
おかげで御神木の「薄墨桜」や県指定天然記念物の「飛竜の藤」は見逃してしまったのですが、とても楽しい時間を過ごすことができました。

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これで全国一の宮会が認定する一の宮の巡拝も、残すところ新一宮3つになりました。
11:00に神社を出発し、もう一つの目的地、会津若松城に着いたのは11:30です。

会津若松城 <福島県会津若松市>

54城目の100名城。西出丸の駐車場に車を停めて、少し歩くとすぐに真っ白な壁に赤い瓦の天守が目に入ります。
昭和40年に鉄筋コンクリート造で外観復興再建されたものですが、そんなことはどうでもよくなるほど美しい天守でした。
2011年に明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われたそうで、それが効いているのだと思われます。
今年の4月に全面リニューアルされた内部の展示室も充実していました。
幕末から明治維新に至るまでの歴史は、複雑であまりよくわかっていなかったのですが、展示を見て、少しわかったような気になりました。

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北出丸そばの「鶴ヶ城会館」で遅い昼ごはんを食べてから、15:15に出発し、家に到着したのは19:15。
娘も今日のドライブは楽しかったようで、よかったです。

□会津若松城

室町時代、相模国の三浦氏から興った葦名氏が築城した黒川城がはじまり。長らく葦名氏がこの地域を支配したが、1589年、伊達政宗が葦名氏を滅ぼし、黒川城に入城。しかし、翌年には豊臣秀吉に臣従し、会津を手離した。
1590年、秀吉の命で伊勢から蒲生氏郷が入り、築城の名手といわれた氏郷によって改築される。町の名を若松に改め、城は蒲生家の舞鶴の家紋にちなみ鶴ヶ城と名付けられた。
1595年、氏郷が40歳で病死すると、氏郷の子・秀行が継いだが、まだ13歳。御家騒動の勃発で、宇都宮へ移封され、替わりに越後国春日山から上杉景勝が入封した。
しかし、景勝は、関ヶ原の戦いで西軍についたため、徳川家康から米沢に移封を命じられ、1601年、蒲生秀行が再入城。
秀行は妻が家康の三女で、徳川一門として重用されたが、30歳で死去。10歳の忠郷が家督を継ぐも、1627年、26歳で病死。嫡子が無かった蒲生氏は減封となって伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで加藤嘉明が入封した。
その子、明成のとき、蒲生時代に造られた七層の天守閣を幕末まで威容を誇った五層するなど大規模な改修が行われた。
1643年、御家騒動で明成は改易。出羽国山形から3代将軍家光の異母弟である保科正之が入封。
以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

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幕末から明治維新までの歴史勉強メモ


12代将軍、徳川家慶の時代

父、11代将軍家斉は、8代吉宗からの直系の血筋が途絶え、御三卿の一橋家からはじめて輩出された人で、1787年、15歳で将軍になってから、在位期間は50年で幕府最長だった。
在位当初は、将軍職を争った、老中松平定信(白河藩)に政治を任せたが、晩年になると、自ら政治を主導し、1837年、65歳のとき、将軍職を45歳の家慶に譲ってからも、69歳で亡くなるまで大御所として政治を仕切った。その政治は、贅沢三昧。賄賂奨励。
血筋を守る意識からか、50人以上の子をもうける(成人したのは25人)が、これにかかる費用が増大したことも、幕府の財政悪化の原因となった。

家斉の死後、老中首座、水野忠邦を中心に、体制の建て直しを目指す(天保の改革)が失敗。(1841-1843)

この間、異国船打払令を廃止し、薪水給与令を発令(1842)。
アヘン戦争(1840-1842)での清朝敗北を受け、従来の方針を転換。

⇒外国船が次々と来航し、開国を要求。

→尊王攘夷論の台頭
水戸藩の徳川斉昭が声高に主張
・血気盛んな若者や諸藩の多くが支持。

→幕府は対応に苦慮
・尊王論は天皇権威復活の危険を孕む
・攘夷論は非現実(諸藩に比べて実情を理解していた)

孝明天皇
弘化3年(1845)2月、践祚。

阿部正弘(譜代・福山藩)
天保14年(1843)閏9月、25歳で老中、弘化2年(1845)9月、27歳で老中首座となる。

島津斉彬(外様・薩摩藩)
早くから外様大名でなければ老中を任せたい人物として、幕府からも注目されていたが、父に嫌われ、藩主にもなれずにいた。
嘉永4年(1851)、阿部の強力な後押しにより、藩主就任。西郷隆盛、小松帯刀などの人材を登用。
西洋文化に興味を持つ、徳川斉昭(親藩・水戸藩)、松平慶永(親藩・福井藩)、伊達宗城(外様・宇和島藩)、山内容堂(外様・土佐藩)、鍋島斉正(外様・佐賀藩[肥前])らと積極的に交流した。
→幕政参加に意欲を示す。

□□嘉永6年(1853-1854)□□

6月、黒船来航。 従来になく強い姿勢で開国を迫られる。幕府は将軍の病気を理由に返答に1年の猶予を要求。 幕府はその対応について、従来幕政に参加することを許されていなかった親藩や外様大名にも意見を求めたが、妙案は出ず。

6月、家慶死去。享年61。子の家定が13代将軍就任。29歳。

・攘夷派を取り込むため、斉昭を海防参与としたものの、斉昭は攘夷の主張を変えず。
・お台場工事


□□嘉永7年/安政元年1854-1855□□


嘉永7年1月、日米和親条約締結。
下田、函館を開港。(ただし函館は自由貿易は認めない)
鎖国政策の終焉。→攘夷派は反発。斉昭、海防参与を辞任。


□□安政2年(1855-1856)□□


・長崎海軍伝習所(日本海軍の前身)創設。

10月、安政江戸地震。

10月、阿部正弘、開国派、攘夷派の融和を図るため、老中首座を自分に近い堀田正睦(佐倉藩)に譲る。

□□安政3年(1856-1857)□□

11月、斉彬の養女、篤姫、家定の正室となる。

将軍継嗣問題
生まれつき病弱で言動も定かでなかった家定の病状が将軍就任後さらに悪化。父、家慶には子女が14男13女がいたが、成人まで存命したのは家定だけだった。家定に子どもはなく、後継者問題が浮上。

かつて家慶は家定を案じ、阿部に父、家斉の実家である一橋家を継いでいた水戸斉昭の子、慶喜を自分の後継にしようと相談したが、そのとき阿部は家定を推していた。

慶喜を推す一橋派と、家定の従弟にあたる紀州藩主、慶福(よしとみ)を推す南紀派が対立。
保守派と改革派の争いのほか、鎖国か開国かの思惑も重なり、争いは複雑化。

□□安政4年(1857-1858)□□

6月、阿部正弘(一橋派)、老中在任のまま病死。享年39。

10月、アメリカ総領事ハリスが江戸城に登城。通商条約締結を求める。

□□安政5年(1858-1859)□□

堀田正睦(南紀派→一橋派)、攘夷派を納得させるため、条約締結にあたり事前に勅許を求めて上洛するも失敗。 従来、事後承諾しかしてこなかった天皇を頼ったうえに成果なく、尊皇攘夷派を勢いづかせることになる。

4月、井伊直弼(彦根藩、南紀派)、大老就任。
かねてより斉昭と対立していた積極開国派の老中、松平忠固(ただかた)(上田藩)らの工作による。

6月、修好通商条約(安政五カ国条約)調印
函館のほか、神奈川(1859/7/4)、長崎(1859/7/4)、新潟(1860/1/1)、兵庫(1863/1/1)の開港。下田は閉鎖。
江戸(1862/1/1)、大坂(1863/1/1)の開市。
直弼自身は勅許をとっての開国を望んでいたが叶わなかった。

→一橋派大名の抗議(一斉不時登城)。

6月、将軍後継は慶福と発表。
最終的に、慶喜は、幕府内で斉昭の子であることが嫌われた。
7月、家定死去。享年35。慶福改め家茂(いえもち)14代将軍就任。13歳。

7月、島津斉彬、死去。享年50。

8月、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)事件
通商条約締結に怒った孝明天皇は、天皇をやめると言い出す。慌てた朝廷は、幕府を越えて水戸藩に天皇の意向(幕閣、外様大名、譜代大名らの協調による公武合体と攘夷を求める)を記した手紙を送った。

→直弼は激怒。
→諸藩は独自行動を開始。

安政5年-6年、安政の大獄。
井伊直弼による自身に対する反対者への弾圧。尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士らが対象となり、連座した者は100人以上。

□□安政6年(1859-1860)□□

密勅の斡旋者。梅田雲浜(小浜藩士)獄死、安島帯刀(水戸藩家老)切腹、橋本左内(越前藩士)斬罪、吉田松陰(長州藩士)斬罪など 一橋派、政敵の処分。永蟄居=徳川斉昭、久邇宮朝彦親王、隠居・謹慎=堀田正睦、松平忠固、徳川慶篤(水戸藩)、一橋慶喜、徳川慶勝(親藩・尾張藩)、松平慶永、伊達宗城、山内容堂など


□□安政7年/万延元年(1860-1861)□□


安政7年3月、桜田門外の変。
直弼、水戸の浪士の襲撃により殺害される。享年46。

老中、安藤信正(譜代・磐城平藩)、井伊直弼の強硬路線から穏健政策に転換。公武合体を推進。

8月、斉昭死去。享年61。

万延元年10月、孝明天皇の妹・和宮の家茂への降嫁決定。

→尊王攘夷を唱える志士が反発。各地から京都に集まる。


□□万延2年/文久元年(1861-1862)□□


毛利敬親(長州藩)、攘夷から一転、長井雅楽を登用し、朝廷と幕府との協調策を模索。


□□文久2年(1862-1863)□□


1月、坂下門外の変。
信正が水戸の浪士の襲撃により負傷→4月失脚。残る老中も4人中3人が数ヶ月の間に退任。長州藩、長井の協調策は失敗。

文久2年、文久の改革。
斉彬の死後に薩摩藩で実権を握った斉彬の異母弟で藩主の父、島津久光と朝廷の圧力により、幕府は改革を強要される。
4月、久光、朝廷からの市中警備の要請に応じて上洛。京都で藩内の尊王攘夷派を粛正(寺田屋事件)し、藩論を公武合体論で統一。朝廷に幕府改革の建白書を提出。
5月、勅使に随行し、江戸入り。幕府に改革を迫る。
一橋慶喜が将軍後見職
・松平慶永(前福井藩主)が新設の政事総裁職に就任。
久光自身の参画は叶わず。

→幕府権力の分裂(江戸と京都)

6月、ロンドン覚書の調印
幕府の文久遣欧使節が渡欧。日本国内の紛糾、度重なる攘夷殺人事件を鑑み、
修好通商条約で決まっていた兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市日付を延期し、1868年1月1日とすることが受け入れられた。

8月、生麦事件
薩摩藩によるイギリス人殺傷事件。翌年、薩英戦争に発展。

8月、長州藩の毛利敬親、藩士・久坂玄瑞の意見を受け入れ、藩論が尊王攘夷に固まる。
久坂玄瑞は、桂小五郎とともに朝廷の尊王攘夷派と結び、朝廷の公武合体派を排斥。朝廷の尊攘化に成功。

・参勤交代の緩和

閏8月、幕府、京都守護職を新設。松平容保(かたもり・親藩・会津藩)を任命。治安維持のため。
容保は、当初断るつもりだったが、慶永に押し切られた。
新選組は、京都守護職預かりの非正規部隊。

10月、久坂玄瑞、勅使とともに江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫る。
家茂は、翌年上京し返答すると応答。


□□文久3年(1863-1864)□□


2月-6月、将軍家茂、上洛。229年ぶり。
家茂は、度重なる攘夷の圧力に「5月10日を以って攘夷を実行する」と約束してしまう。
三港鎖港の通告。横浜鎖港に向けての交渉。

5月、下関事件。
長州藩、攘夷を実行。下関海峡を通過するアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃。


7月、薩英戦争。
生麦事件の報復。
薩摩藩は多額の賠償金を支払う約束をしたが工面できず、幕府から借金をして対応した(その後幕府に返した形跡なし)。
薩摩藩はのちにイギリスと親密な関係に。

八月十八日の政変。
京都での主導権を長州藩に奪われていた薩摩藩は、会津藩と協力し、長州藩を主とする尊王攘夷過激派を京都から追放。
天皇は攘夷論者ではあったが、過激派を快く思っていなかった。

文久3年12月、参預会議の成立と崩壊。
薩摩の島津久光の発案によって作られた、諸大名が朝議や幕議に参加するための新たな政治制度。
大名メンバーは、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光。
しかし、横浜鎖港問題の意見対立(慶喜と容保が鎖港を主張)から、翌年3月で崩壊。
慶喜は久光が幕政に関与することを嫌った。


□□文久4年/元治元年(1864-1865)□□


3月-12月天狗党の乱
水戸藩内の尊王攘夷派と穏健派の抗争。多くの人材を失い、水戸藩出身者が後の明治政府で重要な地位を占めることが無くなる。

3月慶喜、禁裏御守衛総督に就任。

→京都政局は、一橋慶喜・会津藩・桑名藩(親藩)の協調により、主導されることとなる。
徳川慶勝、茂徳(尾張藩)、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)は兄弟で、父は尾張藩支藩の美濃高須藩主、松平義建。


7月、池田屋事件。
新撰組が、京都の旅館、池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃。

7月、禁門の変
長州藩勢力が京都守護職、松平容保らの排除を目指して挙兵したが失敗。久坂玄瑞戦死。

7月、下関戦争。
下関海峡の封鎖を続ける長州藩に対し、英仏蘭米連合艦隊が攻撃。長州完敗。
長州の監督責任があるとして、幕府が4か国に対し賠償金を払う旨の約束を結ぶ。

7月-12月、第一次長州征討。
禁門の変に激怒した孝明天皇は、長州藩追討の勅命を発する。
江戸の幕府は、権勢回復の絶好の機会とし、諸藩に出兵を要請するが、多くの諸藩は混迷に巻き込まれたくないと消極的。
征長軍の総督に指名された徳川慶勝(尾張藩)も、渋々全権委任を条件に引き受けた。
薩摩藩にとっては、宿敵長州を討つ絶好の機会だったが、総督参謀、西郷隆盛は、幕臣のはずの勝海舟に「いまは内戦をしている場合ではない」と説得され、翻意。
長州藩が、藩内の急進派を処罰し、恭順の意を示したことで、戦わずして終結。長州復活の火種を残した。

→長州、大村益次郎(のちの日本陸軍創始者)による軍制改革をすすめる。

□□元治2年/慶応元年(1865-1866)□□

閏5月、将軍家茂、朝廷から長州藩問題の決着をつけるための要請で、3度目の上洛。大阪城に入る。 9月、慶喜の尽力で、薩摩藩・大久保利通の「長州処分問題は諸侯会議で決めるべきだ」の主張を退け、幕府が決めた長州処分内容の勅許が下りる。

9月、英仏蘭米、大坂滞在中の家茂に対し、下関戦争の賠償金の免除と引き換えに、日米修好通商条約の勅許と大坂・兵庫の即時開市・開港を求める。
老中阿部正外(白河藩)、松前崇広(松前藩)が無勅許のまま、開港を決定。勅許を得るため10日の猶予を確保。
→朝廷は激怒。幕府に介入し、両老中は解任される。→家茂は、自分を無視した行動に将軍を辞めようとするが、慶喜らに説得され思いとどまる。

10月、朝廷で条約勅許の議論しても結論が出ず、慶喜の提案で、在京諸藩の藩士を集めて意見を聞き取ると、薩摩藩以外はほぼ勅許の意見。
大久保利通は「薩摩がサポートしながら朝廷が列強と直接交渉する。一旦兵庫開港の回答を延期した後、諸侯会議で決めるべき」と主張したが、
最終的に、天皇は条約を許可した。「攘夷運動」の終わり。
天皇は兵庫開港は認めなかったが、幕府は4か国に対しロンドン覚書どおりの予定で開港と伝えた。

□□慶応2年(1866-1867)□□

1月、薩長同盟。 慶喜との政治戦に敗北を続けた薩摩藩・西郷隆盛は、土佐藩の脱藩浪人である中岡慎太郎や坂本龍馬などの仲介で、文久3年八月十八日の政変以降、対立が決定的となっていた長州藩・桂小五郎と和解。長州藩は孤立から脱却。

6月-9月、第二次長州征討
処分の内容を履行しない長州に対して、幕府が兵を挙げる。
薩摩は大義名分がないとして出兵拒否。宇和島藩、芸州藩、佐賀藩も参戦せず。
15万の幕府軍が1万足らずの長州軍に大敗。
7月、徳川家茂、大坂城にて薨去(21歳)。

12月、慶喜が15代将軍に就任。
29歳。フランスの援助を受けながら幕政改革。
老中の月番制を廃止。

12月、孝明天皇崩御。
36歳。慶喜は大きな後ろ盾を失う。
明治天皇、15歳で皇位継承。

□□慶応3年(1867-1868)□□

3月、慶喜、懸案だった兵庫開港の正式な勅許を朝廷へ申請する。

5月、四侯会議。
長州寛大処置と兵庫開港を、朝廷、慶喜と四侯《松平慶永(越前藩)、島津久光(薩摩藩)、山内豊信(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)》が協議。
薩摩は、兵庫開港を遅らせ、慶喜を追及しようとしたが、慶喜は、開港の勅許を得ることに成功。

→土佐藩、大政奉還を計画。
→薩摩藩、公議路線を放棄。倒幕の密勅を得るため画策。

10月14日、大政奉還。
幕府、土佐藩の意見を受け入れ、朝廷に政権を返上。
ただ朝廷に政権運営の体制はなく、慶喜に緊急政務の処理が引き続き委任された。

12月7日、兵庫港開港。(1868年1月1日)
慶喜が諸外国の窓口になる。

12月9日、王政復古の大号令
なお慶喜が諸外国に対する代表者で居続けていることに危機感を抱き、岩倉具視や薩摩藩が中心となり、5藩(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)の兵が御所の九門を封鎖し、以後親幕府的な朝廷首脳の参内を禁止した。
従来の機構、秩序を一新する新体制の樹立を宣言。

ただ、この時点でもまだ新政府から徳川宗家の排除が固まっていた訳でなく、越前藩・尾張藩らは徳川宗家を諸侯の列に下すことを目標としていた。

12月25日、庄内藩による江戸薩摩藩邸の焼討事件発生。
旧幕府派討伐の口実を与えてしまう。

□□慶応4年/明治元年(1868-1869)□□

慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦い勃発。 慶喜、旧幕臣たちの薩摩藩討伐へ行動を抑えきれず。御所では慶喜討伐が決定。

慶応4年1月6日、慶喜、江戸へ退却。2月、寛永寺にて謹慎。
慶応4年4月、江戸開城。慶喜、水戸で謹慎。
慶応4年7月、徳川家達(いえさと)、駿府藩主として徳川宗家の家督相続。6歳。慶喜、駿府で謹慎。

明治元年9月22日、会津藩降伏。


□□明治2年(1869-1870)□□


5月18日。戊辰戦争終結。

新政府は、薩長土肥→薩長閥→長州閥によって主導されていく。

 

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