今日は東北道をひた走り、宮城県の白石城(しろいしじょう)に行ってきました。
白石城訪問記(2018/08/25)
東京江東区の自宅を出たのは朝7時過ぎ。
あまり行き先を考えずに家を出ましたが、この時間だと東名や中央道は既に長い渋滞の表示が出ていて、もうそちら方面には行く気になれず。
比較的空いている東北道を進み、道の状況に応じて白石城か米沢城か三春城にしよう考えていたところ、予想以上に道は順調で、行き先は一番遠い白石城になりました。
高速を降りてからは、道の途中に度々出てくる案内表示に従っていくと、迷うことなく
城の北西にある「白石城城下広場駐車場」に到着。
ここまでの所要時間は、ほぼコースタイムどおりの4時間でした。
車から降りるとクラクラするほどの暑さ。東北をなめていました。
城までの道には、シルクロードをもじったと思われる「シロクロード」の標識。。面白いかな??
ここから城へは歩いて5分くらいでした。
二の丸大手二ノ門跡。現在は門はありません。
門跡の横には、本丸外郭の石垣の遺構があります。 往時は土塁の上まで石垣があったようですが、明治期に破却されたみたいです。 築城時とその後で修復した時代によって、石垣の積み方が異なることがわかります。
さてまだ来たばかりですが、あまりの暑さに耐えられず、 城内の「歴史探訪ミュージアム」に入って一休みすることにしました。 2階の展示室で歴史の勉強。
白石城の歴史
藤原鎌足の子孫と伝えられる白石氏が、寛治年間(1087-1094)に居館を建てたのがはじまりといわれています。
白石氏は伊達政宗の曽祖父、伊達稙宗(たねむね)のときに伊達氏の家臣となりますが、その後もこの地域を支配しました。
1586年、白石氏は主君、伊達政宗によって所領替えを命じられ、伊達家家臣の屋代景頼が入封しましたが、小田原征伐後、豊臣秀吉に没収されて蒲生氏郷の所領となり、その家臣、蒲生源左衙門郷成が白石城を築城して城主となりました。
1598年、氏郷の死去に伴って上杉領となり、家臣の甘糟備後守清長が入城しますが、1600年、関ヶ原合戦の直前に伊達政宗が混乱に乗じて白石城を攻略し、再び伊達領となりました。
政宗が最も信頼を寄せていた家臣の片倉小十郎に城が与えられると、
小十郎は城の大改修を行います。仙台藩は、1615年の一国一城令後も仙台城と白石城の二城が許され、以後、明治維新まで260余年間、ここは片倉氏の居城となりました。
戊辰戦争の際には、ここで奥羽越列藩同盟が結ばれています。
白石城は標高76mの丘陵上に築かれた平山城。天守代用の三重の大櫓が特徴です。明治期に破却されましたが、平成7年に史実に忠実に木造復元されました。
「歴史探訪ミュージアム」を出て、先に進むと、立派な三階櫓が現れました。
本丸の中に入っていきます。
一ノ御門
二ノ御門
本丸内部
かつて、本丸内部にはびっしり建物が建っていたようです。 模型は上が南で、北西に三階櫓。中央下の門から本丸の中に入ってきたところです。
続100名城スタンプは三階櫓の中でした。
三階櫓の最上階。史実に忠実に木造復元した建物はほんとに立派でした。
三階櫓から。一ノ御門、二ノ御門の構造がよくわかります。 なお、左上の三階建ての建物が先程までいた「歴史探訪ミュージアム」です。
三階櫓から本丸方向(南東)
三階櫓から二の丸方向(西)
本丸井戸と鐘堂
裏御門跡
本丸南側の門。門のために周囲の土塁が切られています。
二の丸より三階櫓
地元出身の明治時代の横綱、大砲(おおづつ)関の像と一緒に。
マンホール
本丸と二の丸の間の道にあったマンホール。 後で調べたら、マンホールカード配布場所は城内の「歴史探訪ミュージアム」でした。 もらえばよかった!
水路
以上で散策は終了。 駐車場に戻る途中、城を囲む水路の水がとても綺麗だったので、思わず撮ってしまいました。
感想
見学時間は、約80分(11:20-12:40)でした。
三階櫓を案内していただいた地元の方が、誇らしげにお話をされている姿が印象に残りました。「三階櫓が仙台のある北東を向いているのは、蒲生氏時代に北の守りとして築かれた名残」というお話にとても納得させられました。
まだ時間が早かったので、ここから山形の米沢城に向かいました。