2018年8月25日

続100名城:山形県米沢市の米沢城に行く

白石城に行った後、米沢城に向かいました。12:40に白石城を出て、ずっと下道を走るルート。 はじめナビの到着時刻は、15:30と出ていましたが、道は順調で着いたのは14:00過ぎでした。

城址は明治7年より松が岬公園(まつがさきこうえん)として一般開放されています。 本丸内は明治5年に創建された上杉謙信を祀る上杉神社になっています。

以下は現在の松が岬公園の地図と米沢城下鳥瞰図です。いちおう2つの図の向きは同じになっています。 城の遺構として残っているのは、本丸を囲う一番内側の水堀ぐらい。

20180825_20.jpg

20180825_21.jpg

北東の位置から西の方向をみたところ。本丸の角には御三階という櫓が建てられていました。

20180825_23.jpg

米沢城の歴史

米沢は、16世紀半ば、伊達家が晴宗から政宗まで3代に渡って本拠を置いた場所です。 1589年、伊達政宗は会津の蘆名氏を滅ぼし、黒川城に移るも、翌年秀吉に米沢に戻され、 1591年には宮城県大崎市の岩出山城に移されました。

会津と米沢には、伊達に代わって豊臣秀吉の命で、 松坂城から蒲生氏郷が入封しましたが、氏郷が死去すると、 蒲生氏では東北諸大名と徳川家康を監視牽制する役割は重すぎたため、 1598年、越後の大大名、上杉景勝が120万石で入封し、米沢城には直江兼続を配置しました。 (直江兼続自身は景勝を補佐するため会津若松城におり、城代を置いていた)

1598年、秀吉の死去後、家康との対立は避けられず、 1600年、関ヶ原の戦いで敗れた結果、改易は逃れるも出羽国米沢30万石に大減封。 景勝は米沢城に移り、米沢藩が成立します。

1664年には、継嗣問題でさらに15万石に減封され、藩の財政は逼迫しましたが、 9代藩主・治憲(鷹山)の改革により借財を完済。 明治維新を迎える13代茂憲まで、上杉家の居城となりました。 (その後、茂憲は沖縄県令を務めました)

なお、戊辰戦争では、継嗣問題のときに家の存続に奔走してくれた保科正之に恩義を感じ、 奥羽越列藩同盟に参加しました。 当時会津藩主だった保科正之は、嫡子なく急死した3代綱勝、の正室の父にあたり、 無嗣断絶により改易されるべきところを、 吉良上野介に嫁いだ綱勝の妹の子を末期養子(綱憲)とするように計らいました。

上杉家の歴史

上杉で一番有名なのはもちろん「上杉謙信」ですが、謙信はもともと越後国の守護代・長尾家の人で「長尾景虎」という名前でした。 どのようにして上杉を名乗ることになったのか。 越後を中心に上杉家のはじまりから謙信の次の景勝までの歴史を調べました。

はじまりは鎌倉時代の藤原重房から

上杉氏は、藤原北家の流れを汲む「藤原重房」が、現在の京都府綾部市上杉町周辺を領して「上杉」と名乗ったのがはじまり。 鎌倉後期、重房は皇族初の征夷大将軍となった六代将軍宗尊(むねたか)親王に従って鎌倉に下向し、武家となりました。

足利氏との姻戚関係で伸長

重房の孫の清子は足利尊氏の生母。 尊氏が室町幕府初代将軍となると清子の兄「上杉憲房」は上野国守護となり、 その子「憲顕(のりあき)」は、上野、越後、武蔵の守護、および関東管領になり、 足利氏との姻戚関係から勢力を伸ばしました。

越後守護上杉家と長尾景虎

越後の守護は、憲顕の子、憲栄(のりよし)が継ぎ(越後上杉家初代)、6代目「房定」のとき最盛期を迎えます。しかし、房定の没後は混乱し、8代目が跡継ぎなく亡くなり、断絶。 1550年、領国の混乱を収めた守護代「長尾景虎」が、13代将軍足利義輝の命令で越後守護を代行しました。

山内上杉家

その間、上野を本拠とした上杉の本家「山内上杉家」は、足利公方家との対立や一族間での対立を繰り返すうちに、 後北条氏の関東進出を許してしまいます。北条氏康との戦いに敗れた上杉憲政(のりまさ)は、 長尾景虎を頼って越後に逃れます。

長尾景虎、上杉政虎と改名

その後、長尾景虎は、上杉憲政の要請で山内上杉家の家督と関東管領職を引継ぎ、 13代将軍足利義輝の了承も得て、上杉政虎(のちの輝虎、謙信)と改名しました。

御館の乱を経て、上杉景勝が後継者に

謙信に実子はなく、1578年、謙信が急死すると、 景勝(長尾政景の実子、母は謙信の姉)と景虎(北条氏康の実子)の二人の養子の間で相続争いが勃発します。 これに景勝が勝利し、後継者となりました。

織田軍の攻撃により、滅亡の危機に瀕するも「本能寺の変」が起こり、免れます。 その後、景勝は豊臣秀吉に仕えて領地を広げ(佐渡も領有)、豊臣政権五大老の一人となりました。

上杉神社

本丸の東に架かる舞鶴橋が正面参道です。

20180825_22.jpg

上杉謙信祠堂(御堂)跡

本丸南東部のここは、上杉謙信の遺骸を安置した御堂があった場所。移封に伴い、会津、米沢と移されてきました。明治4年の廃藩に伴い、謙信は上杉神社の祭神として祀られることになり、 遺骸は上杉家廟所に移されました。

20180825_37.jpg

境内には米沢城にゆかりのある人たちに関係する銅像や碑が数多く建てられています。

上杉謙信公像

20180825_24.jpg

上杉景勝公、直江兼続公 主従像

20180825_25.jpg

上杉鷹山公像

20180825_26.jpg

20180825_27.jpg

伊達政宗生誕の地碑

20180825_28.jpg

神社好きですから、しっかり参拝して、御朱印もいただきました。

鳥居

20180825_29.jpg

神門

20180825_30.jpg

拝殿・本殿

20180825_31.jpg

御朱印

20180825_44.jpg

春日神社

958年、越後の国司が奈良の春日大社を上越の春日山頂に分霊しを勧請したのが始まりとされています。米沢に移された往時は林泉寺の一角に鎮座していたとのこと。

20180825_32.jpg

福徳稲荷神社

6代藩主・宗憲が城内の鎮護として二の丸に勧請したものです。

20180825_33.jpg

福徳稲荷神社奥乃宮と辨天宮

20180825_34.jpg

菱門橋

本丸南の堀に架かる橋。城があった当時からこの近くに同じ名前の橋がありましたが、土橋だったようです。

20180825_35.jpg

観光案内所

続100名城スタンプはここで押しました。

20180825_36.jpg

松岬神社

米沢城二の丸世子御殿跡にある神社で、上杉神社の摂社。 明治35年に9代藩主・鷹山を上杉神社から分祠し、大正元年に社殿が建立されました。 後に、初代藩主・景勝やその家臣、直江兼続らが合祀されました。

20180825_38.jpg

見学時間は、上杉神社稽照殿(宝物殿)も含めて、約100分(14:10-15:50)でした。 城巡りというより、神社に参拝しに行った感じでしたが、歴史に思いを馳せながら歩くのは楽しいです。

上杉家御廟所

米沢に来て歴史に思いを馳せるのであれば、ここもはずせない場所です。 米沢城から車で5分程度のところにあります。 江戸時代は、初代景勝より11代斉定まで、米沢藩の歴代藩主の御廟でしたが、 明治9年に謙信の遺骸も米沢城から遷されて、現在の形に改変されました。 ちなみに明治以降に亡くなった藩主のお墓は東京にあるそうです。

20180825_39.jpg

謙信公御廟

20180825_40.jpg

景勝公御廟。入母屋造。

20180825_41.jpg

治憲(鷹山)公御廟。宝形造。

20180825_42.jpg

初代から7代藩主までは火葬で、8代から11代藩主までは土葬。 埋葬方法によって廟屋の建築様式が異なります。

20180825_43.jpg

お土産に米沢牛を

城の隣の上杉城史苑にて。せっかく米沢まで来たので奮発しました。いいものの味が分かりました。

20180825_45.jpg






関連記事