本日2城目のお城。宮城県の白石城からの移動はずっと下道を走るルート。
12:40に白石城を出て、ナビの到着時刻ははじめ15:30と出ていましたが、
道が順調で実際の到着は14:00過ぎでした。
城址は明治7年から、「松が岬公園(まつがさきこうえん)」として一般開放されています。
本丸は、明治5年に創建された上杉謙信を祀る上杉神社になっています。
以下は現在の松が岬公園の地図と米沢城下鳥瞰図。2つの図の向きは同じ。 城の遺構として残っているのは、本丸を囲う一番内側の水堀ぐらいです。
北東の位置から西の方向をみたところ。本丸の角には御三階という櫓が建てられていました。
米沢城の歴史
米沢は、16世紀半ば、伊達家が晴宗から政宗まで3代に渡って本拠を置いたところです。
1589年、伊達政宗は会津の蘆名氏を滅ぼして黒川城に移りますが、翌年秀吉に米沢に戻され、
さらに1591年には、宮城県大崎市の岩出山城に移されました。
政宗に代わり会津と米沢には、松坂城から蒲生氏郷が入封しましたが、氏郷が死去すると、
蒲生氏では東北諸大名と徳川家康を監視牽制する役割は重すぎたため、
1598年、越後の上杉景勝が120万石で入封。景勝は会津若松城に入り、直江兼続が米沢城に配されました。
(直江兼続自身は会津若松城におり、米沢城には城代が置かれました)
1598年、秀吉の死去後、家康との対立は避けられなくなり、
1600年の関ヶ原の戦いで敗れた結果、
上杉氏は、改易は逃れるも出羽国米沢30万石に大減封。景勝は米沢城に移り、米沢藩が立藩しました。
1664年には、継嗣問題でさらに15万石に減封され、藩の財政は逼迫しましたが、
9代藩主・治憲(鷹山)の改革により借財を完済。
以後、13代茂憲のときに明治維新を迎えるまで、米沢城は上杉家の居城となりました。
1664年の継嗣問題とは、3代綱勝が急死し、本来無嗣断絶により改易になるところ、
綱勝性質の父にあたる会津藩主、保科正之が吉良上野介に嫁いでい綱勝の妹の子を末期養子(綱憲)とするように計らった出来事。
その恩義から、米沢藩は戊辰戦争の際に、奥羽越列藩同盟への参加を決めたそうです。
上杉家の歴史
上杉家で一番有名なのは「上杉謙信」だと思いますが、謙信はもともと越後の守護代・長尾家の人で「長尾景虎」といいました。 どのようにして上杉を名乗ることになったのか。この機会に上杉家のはじまりから景勝までの歴史をざっと調べてみました。
はじまりは鎌倉時代の藤原重房から
上杉氏は、藤原北家の流れを汲む藤原重房が、現在の京都府綾部市上杉町周辺を領して「上杉」と名乗ったのがはじまりだそうです。 鎌倉後期、重房は皇族初の征夷大将軍となった6代将軍・宗尊(むねたか)親王に従い鎌倉に下向して、武家となりました。
足利氏との姻戚関係で伸長
重房の孫、清子(きよこ)は足利尊氏の生母。尊氏が室町幕府初代将軍となると清子の兄、上杉憲房は上野国守護となり、 その子、上杉憲顕(のりあき)は上野、越後、武蔵の守護、および初代関東管領になって勢力を伸ばしました。
越後上杉家と長尾景虎
憲顕の後、越後の守護は、子の憲栄(のりよし)が継ぎ(越後上杉家初代)、
6代上杉房定は、信濃の半国守護にも任命され、越後上杉家は最盛期を迎えました。
しかし、1494年に房定が死去し、子の房能が跡を継ぐと、守護代の長尾家と対立するようになり、
長尾為景は、房定の甥にあたる定実を擁立して房能を討ちました。
本家の11代当主となっていた房能の実兄、上杉顕定がこれに怒り、越後に侵攻しますが、1510年に顕定は敗死。
その後、定実が為景の傀儡になっていることに不満を示し、反為景勢力によって為景は隠居に追い込まれるなど、
国内混乱のなか定実は嫡子がないまま1550年に死去し、越後上杉家は断絶しました。
その混乱を為景の子、「長尾景虎(上杉謙信)」が収拾。
13代将軍足利義輝の命で、越後守護を代行することとなりました。
山内上杉家
上杉家4代当主、上杉憲顕を祖とする本家の「山内上杉家」は、上野を本拠にしていましたが、 鎌倉公方家との対立、一族間での対立を繰り返すうちに、後北条氏の関東進出を許します。 15代当主、上杉憲政(のりまさ)は、北条氏康との戦いに敗れ、長尾景虎を頼って越後に逃れました。
長尾景虎、上杉政虎と改名
その後、長尾景虎は、上杉憲政の要請で山内上杉家の家督と関東管領職を引継ぎ、 13代将軍足利義輝の了承も得て、上杉政虎(のちの輝虎、謙信)と改名しました。
御館の乱を経て、上杉景勝が後継者に
1578年、謙信が急死すると、景勝(謙信の姉が母)と景虎(北条氏康7男)の二人の養子の間で相続争いが勃発します(御館の乱)。
これに景勝が勝利し、後継者となりました。
その後、景勝は織田軍の攻撃を受けて、滅亡の危機に瀕しますが、「本能寺の変」によって、難を免れました。
1586年に、豊臣秀吉に臣従すると、領地を広げ、豊臣政権五大老の一人となりました。
上杉神社
本丸の東に架かる舞鶴橋が正面参道です。
上杉謙信祠堂(御堂)跡
本丸南東部のここは、上杉謙信の遺骸を安置した御堂があった場所。移封に伴い、会津、米沢と移されてきました。 明治4年の廃藩に伴い、謙信は上杉神社の祭神として祀られることになり、遺骸は上杉家廟所に移されました。
境内には米沢城にゆかりのある人たちに関係する銅像や碑が数多く建てられています。
上杉謙信公像
上杉景勝公、直江兼続公 主従像
上杉鷹山公像
伊達政宗生誕の地碑
神社好きとして、しっかり参拝し、御朱印もいただきました。
鳥居
神門
拝殿・本殿
御朱印
春日神社
本丸の南西角にある神社。 958年、越後の国司が奈良の春日大社を上越の春日山頂に分霊しを勧請したのが始まりとされています。米沢に移された往時は林泉寺の一角に鎮座していたそうです。
福徳稲荷神社
本丸の西辺、上杉神社を挟んで春日神社の反対側にある神社。 6代藩主・宗憲が城内の鎮護として二の丸に勧請したものだそうです。
福徳稲荷神社奥乃宮と辨天宮
菱門橋
本丸南の堀に架かる橋。城があった当時からこの近くに同じ名前の橋がありましたが、そのときは土橋だったようです。
観光案内所
続100名城スタンプはここで押しました。
松岬神社
米沢城二の丸、世子御殿跡にある神社で、上杉神社の摂社。 明治35年に9代藩主・鷹山を上杉神社から分祠し、大正元年に社殿が建立されました。 後に、初代藩主・景勝やその家臣、直江兼続らが合祀されたそうです。
見学時間は、上杉神社稽照殿(宝物殿)も含めて、約100分(14:10-15:50)でした。 城巡りというよりなんだか神社に参拝しに行った感じでしたが、 歴史に思いを馳せながら城内を歩くのは楽しかったです。
上杉家御廟所
さて、米沢に来て歴史に思いを馳せるのであれば、ここもはずせない場所。 米沢城から車で5分程度のところにある「上杉家御廟所」は、 かつては初代景勝から11代斉定まで、米沢藩歴代藩主の御廟でしたが、 明治9年に米沢城の御堂にあった謙信の遺骸も遷されて、現在の形に改変されたそうです。 なお、明治以降の上杉家当主のお墓は東京にあるそうです。
謙信公御廟
景勝公御廟。入母屋造。
治憲(鷹山)公御廟。宝形造。
初代から7代藩主までは火葬で、8代から11代藩主までは土葬。 埋葬方法によって廟屋の建築様式が異なります。
家族へのお土産に米沢牛を
城の隣の上杉城史苑にて。せっかく米沢まで来たのでめずらしく奮発しました。