続日本100名城:鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)に行く

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鶴ヶ岡城は、山形県鶴岡市にある平城で、江戸時代はじめの元和8年(1622)年に、徳川十六神将の筆頭、酒井忠次の孫の忠勝が庄内に入部して以来、代々酒井家が居城としてきました。今年は酒井家庄内入部400年で記念事業も行われているようです。

築城年代は不明ですがかつては大宝寺城といいました。これを築いたのは鎌倉時代に地頭として入部した武蔵国出身の武藤(大宝寺)氏。戦国時代になると庄内地方は越後の上杉氏と山形城を居城とする最上氏の争奪の場となり、秀吉の裁定で一時上杉領になりますが、関ヶ原の戦いのとき最上義光が奪還。家康からも領有を認められ、城の整備を行いました。鶴ヶ岡城への改称は、酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城と改称したのがきっかけ。

最上家の山形藩は57万石の大藩でしたが、義光が慶長19年(1514)に病死するとそのわずか三年後に子の家親も急死。孫の義俊のときにお家騒動が起こり改易されてしまいました。旧領は山形藩、新庄藩、庄内藩などに分割され、庄内に入部した酒井忠勝は鶴ヶ岡城を本城とし、近世城郭への大改修に着手。現在の城跡の原型ができました。

本丸と二の丸部分は、現在、鶴岡公園になっています。

公園案内図を確認。中央の荘内神社部分が旧本丸。それを囲う本丸の水堀は往時は全体が繋がっていましたが今は地図の下にあたる東の部分が一部切れています。本丸の水堀の外側で緑に色付けされている部分がだいたい旧二の丸だったところ。二の丸の外側にもかつては一周囲う水堀がありましたが今は鍵状に西側と北側が残るのみ。西側に残る堀にはかつてなかった橋が架かっています。
地図左上の新百閒堀という池は、二の丸の堀の一部ではなくて、かつて百閒堀と呼ばれた大きな堀の一部に相当するものです。

二の丸西側の堀。

二の丸西御門跡。外側には馬出もついていた門ですが、今は何も残っていません。

二の丸西側部分。広い。

本丸西南部分を本丸堀越しに見たところ。 角には御金蔵がありましたが、現在は護国神社が建てられています。

本丸中ノ橋。古地図では木橋ですが今は土橋。 渡った先は枡形に折れる構造になっていて、かつて門があったことが想像できました。 正面の建物は大宝館といい、大正4年に大正天皇の即位を記念して建てられたもの。 当時は図書館などとして利用されましたが、現在は鶴岡ゆかりの人物資料館になっています。入館無料。 私が知っている人では、元横綱柏戸、旧陸軍の石原莞爾、詩人の茨木のり子の展示がありました。

中ノ橋の上から見た本丸南側の堀。右に見える本丸部分には渡櫓があったようです。

本丸跡には荘内神社。七夕の飾り付けが賑やかでした。 明治10年創建。御祭神は酒井家初代忠次、二代家次、三代忠勝、九代忠徳(ただあり)の四柱。 忠徳は中興の祖的な人物で、藩政改革を行って財政再建を実現しました。

手水舎のあじさい。

二の丸大手門跡。今は本丸の神社までまっすぐ参道が延びていますがかつては本丸の堀で塞がれていたので、 先ほどの中ノ御門に回るのが本丸へのルートだったはず。

復元図を確認。先ほどの公園図同様、地図は上が西です。地図の下部分、二の丸大手門周辺を含む東側が今と一番変わっています。

御城稲荷神社。二の丸北東の鬼門に宝永5年(1708)、酒井家六代忠真が創建した神社。 本丸、二の丸のなかで唯一残る建造物です。 2月の初午(はつうま)の日には、農民、商人たちの参拝のためにお城が開放されて賑わったとのこと。 酒井家は領民との関係もすごく良好だったようです。

二の丸北側の堀越しに見る稲荷神社社殿。

二の丸北側の堀を東方向から見たところ。

二の丸「外北御門」。

門を入ったところ、二の丸北側部分。

本丸北側の堀は、今は菖蒲田になっていました。右に見えている橋は本丸「中北御門」に通じる橋ですが、 復元図やその他の古地図とは位置が違っています。場所が変わっているのかはどうかはわからず。

本丸北西の角櫓跡。鶴ヶ岡城には天守はありませんでしたが、 ここと二の丸南東の角櫓がその代わりになるようなものだったようです。

本丸北西の角櫓跡の上から本丸を見たところ。今は奥が荘内神社の境内。

本丸北西の堀越しに角櫓跡を見たところ。本丸の堀の水が綺麗なのが印象的でした。

二の丸南東の角櫓の石垣。二の丸を横断するかたちで造られた道路の反対側に不自然な石垣があったので、 とりあえず写真を撮りました。帰った後で調べて遺構だとわかりました。

致道館

二の丸南東の角櫓近く、三の丸にある庄内藩の藩校。入館無料。

文化2年(1805)に、荘内神社の御祭神にもなっている酒井家9代忠徳が創設。 当時は城外に建てられましたが、政教一致の趣旨から文化13年(1816)に 10代忠器(ただかた)によって現在地に移されました。明治6年(1873)に廃校。

聖廟。

講堂。

当時は講堂の東側にはほかにも学生の宿舎などの建物がありました。今、奥に見えるのは鶴岡市文化会館。

講堂から繋がる御入間の一番奥の間である御居間は藩主が訪れたときに入る部屋。 戊辰戦争降伏の際には、酒井家13代の忠篤(ただずみ)が新政府軍参謀黒田清隆とここで対面しました。 このとき、黒田清隆は上座に座り処分を言い渡した後、下座にまわって「失礼申し上げた」と忠篤に謝したのだそう。

庄内藩の軍隊は、藩校での教育や酒田の豪商本間家の援助で最新式の武器を備えていたことなどから、 とても強かったようです。 会津藩の降伏をきっかけに降伏を決断しましたが、それまで新政府軍との戦いでは負けたことがなかったそう。

御入間を外側から。右奥が御居間部分。

致道博物館

幕末、三の丸に建てられた藩主の隠居所のまわりに、各所の歴史的建造物等を移築して作られた博物館です。 入館料は800円ですが、とても見ごたえがありました。

旧庄内藩主御隠殿

元治元年(1864)建築。酒井家11代忠発(ただあき)の隠居所として、 江戸中屋敷を一部移築して建てられたもの。

酒井氏庭園

隠居所にあわせて造られた庭園。

御隠殿奥の間からの眺め。

旧西田川郡役所

明治14年創建。残念ながら入館は不可になっていました。

旧渋谷家住宅

湯殿山の麓の民家を移築。

文政5年(1822)創建。重要文化財ですが中も隅々まで見学することができます。

手前が主人の席、右が奥方、左が客人、対面が若い者の席だそうです。

旧鶴岡警察署庁舎

明治17年創建。

ベランダからの眺め。右奥の山は月山でしょうか。

赤門

田安徳川家の姫君が酒井家に輿入れしたときに建てられた門で、御隠殿とともに江戸から移築されたと伝えられています。

ひとこと

今日は久しぶりに長距離ドライブがしたくなり、東京から5時間半かけてふらっと訪れたのですが、藩校と博物館を含めてとてもいいお城でした。酒井家代々の殿様と領民の関係の良さが伝わり、土地からパワーをもらえた感じがしました。今度は、酒田の町や出羽三山にも行ってみたいです。

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