続日本100名城:村上城(新潟県村上市)に行く

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13年ぶりに買い替えた新車の初ドライブに、新潟県北部の村上城へ行ってきました。 東日本には珍しい総石垣張りの平山城です。

標高135mの臥牛山(通称:お城山)西麓に綺麗な駐車場が用意されています。 朝4:30に家を出てから5時間ちょっとかかりましたが、初体験のクルーズコントロールのおかげか、あまり疲れずに着けました。 これから山登り、、。

駐車場にあった村上城の説明板。とてもわかりやすくまとめられていました。 石垣の城に作り替えられていくのは、1598年、上杉氏の会津転封に伴って新たに城主になった村上氏の頃から。

1618年から城主となった堀直寄(ほりなおより)は築城とまちづくりにとても秀でた人物で、 村上藩に移る前の長岡藩主時代には、三国街道、長岡城下、新潟港を整備して、近世以降の越後発展の礎を築いたといわれています。 村上藩主になってからも、上野寛永寺の不忍池を作ったり、上野大仏を寄進したりしています。 元々は豊臣家臣の堀氏の与力でしたが、家康にも忠義を尽くして信頼も厚かったとのこと。もっと有名でも良さそうな人です。

現在残る城の形ができたのは、1649年から城主になった松平直矩(なおのり)の時代だそう。 直矩は、父・直基が姫路藩主を命じられた直後に急死して7歳で家督を継ぎますが、幼少で姫路は不適当とされ村上藩に移ってきました。 18年後に姫路に戻りますが、その後も豊後日田、出羽山形、陸奥白河と転封を繰り返し、後に「引っ越し大名」と呼ばれました。 「大和守日記」という生活記録を残しており、今では江戸時代を知ることができる貴重な資料だそうです。

その隣にあった縄張り図。
左端中央に見える一文字門跡から七曲り道(大手道)を通って山上の四ツ門跡に行き、 そこから北側の三の丸(調練場跡)を見た後、南側の二の丸、本丸と見ていきます。

中央右奥に「七曲り道」の入口が見えます。左手に広がるスペースが「藩主居館跡」。

七曲り道の手前に建つ「一文字門跡」の石碑。 城があった当時は、枡形の大きな一文字門をくぐった先に藩主居館と七曲り道がありました。

山側に残る石垣は一文字門の枡形の一部だそう。これだけでも相当立派だったことが想像できます。

「藩主居館跡」。かつてはここに御殿と政庁機能が置かれていました。お城山のある東側以外の三方を堀と土塁で囲い、南西角には三重櫓も建っていたそう。 1720年より明治維新まで藩主を勤めた内藤家は、徳川家康の異母弟ともいわれる内藤信成がご先祖の徳川譜代の家臣の家柄。 居館の建物は、戊辰戦争で新政府軍と戦う際に、ここでの籠城戦は無理と判断した藩士によってすべて焼却されてしまったそうです。

「七曲り道」は山頂城郭への正規の登城道。そこそこ大変な坂道でしたが、登りはじめてからすぐに下の景色が見えて気分が楽になりました。

約10分程で「四ツ門跡」が見えてきました。石垣の上には多聞櫓が建っていたそうです。

いい門ですね。

四ツ門は、七曲り道と搦め手の東西と三の丸と二の丸の南北が交差する十字路に建ち、 各方向に扉のある櫓門だったことから、そうした名前がつけられたとのこと。

四ツ門から北側の、三の丸の方向を見たところ。

三の丸(調練場跡)。

三の丸の北端に「靭櫓(ゆきやぐら)跡」。靭とは矢を入れる籠のこと。

靭櫓(ゆきやぐら)側面の石垣。

三の丸北東端に「玉櫓(たまやぐら)跡」。

四ツ門から南側、二の丸の方向。奥のほうにちらっと立派な石垣が見えてます。

案内図を確認。ここまでは「現在地」の下にある七曲り道を登り、左側の三の丸を見てきました。 これから右側の二の丸、本丸を見て、最後に中世遺構散策コースを通って四ツ門に帰ってきます。

先程奥に見えたのは、二の丸入口「御鐘門」の石垣でした。

枡形を通って二の丸のなかへ、、


二の丸内側から御鐘門を見たところ。

御鐘門を入って左手、東の方向には朝日・飯豊名峰の眺望の案内板がありました。 ただ、絵に描かれた山が実際の景色のどれにあたるのかは、よくわからず。。

その下に先ほど見た案内図にはなかった「東門跡」の案内板が小さく見えました。 ここから下に降りるのは無理そうだし、どこからどう繋がっているのかはわからず。。

二の丸は南北縦長の構造。南に進んだ先に本丸の石垣が見えています。

ここが続100名城のスタンプに描かれた場所です。「出櫓跡」から本丸にかけての石垣。

通ってきた道を振り返り、本丸帯曲輪と二の丸との境にある「黒門跡」を本丸側から見たところ。 ここからの眺めによって、二の丸には、御鐘門から続く「上通り道」と東門から続く「下通り道」があり、 ここまで「上通り道」を通ってきたことがわかりました。 「下通り道」は現在通行不可。「黒門」は両方の道にまたがって建てられていた門だったようです。

本丸を囲う帯曲輪の北東角にある「平櫓跡」。藪に埋もれて様子はよくわからず、とりあえず写真を撮っただけ。。

本丸北東角の石垣。

本丸帯曲輪の東側下に「埋門」。後で通ることにしてまずは本丸へ。

本丸石垣の東側面に、本丸への入口「冠木門」があります。

冠木門をくぐったその先には、、

天守台がみえていますが、、

まずは眼下に広がる素晴らしい眺望を見ます。奥に見えるのは日本海ですね。

パノラマ撮影。

冠木門を上から見たところ。いま自分が立っている場所には多聞櫓がありました。

同じ場所から本丸の北側。

本丸北側からの眺望。二の丸から来るときに正面に見た「出櫓跡」の上が見下ろせます。

天守台。

臥牛山山頂。

本丸を出て、帯曲輪の続き。写真は本丸南西の石垣で、石垣の上は天守台のところ。

本丸北西の石垣を出櫓の上から。

それでは埋門から中世遺構散策コースを通って四ツ門まで戻ります。

中世散策コース途中の「曲輪」。 こちらは、本庄氏が城主だった頃の中世期遺構のひとつ。その頃は土の城で、城の入り口も山の東側にあったそうです。

さらにその下に続く道を進むと竪堀や虎口もあるようですが、結構な急斜面。 戻ってくるのがきつそうだったので今回はやめました。

「坂中門跡」。縄張図を見ると、写真右手の先に鉄砲倉台跡という曲輪、 左手石垣の向こう側には二の丸の御鐘門下に見えた東門に繋がる道があったようです。

馬冷やし場(千貫井戸)。

四ツ門跡に戻って散策終了です。散策の所要時間はゆっくりまわって2時間。 見どころがたくさんあって適度な運動にもなるいいお城でした。

帰りがけに振り返って見た臥牛山(お城山)。こうしてみると紅葉が綺麗です。

西奈彌羽黒神社(せなみはぐろじんじゃ)

城山の写真を撮ろうと車を停めたところがたまたま神社の前で、 由緒書に村上郷総鎮守とあったので参拝しました。

延喜式内社「越後国磐船郡 西奈彌神社」の論社で、 御祭神は奈津比売大神(なつひめのおおかみ)・倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・月読大神(つきよみのおおかみ)。
創建時からの主祭神は奈津比売大神でこちらは当地の開拓の神。 戦国時代に当地を支配した本庄繁長が出羽三山神社から倉稲魂大神と月読大神を分祀して合祀したとのこと。

当初は西奈彌山(現在の臥牛山)頂上にあり、村上氏が村上城主の頃に中腹に遷されたとのこと。 寛永10(1633)年、堀直竒の時代に神社を上(城)から見下ろすのは畏れ多いとして、現在地に遷宮したそうです。

ちょっとご挨拶するつもりでしたが目の前には長い石段が、、133段あるらしいです。

落ち葉で足を滑らせながら登った先に社殿が見えました。

社殿。明治12年起工、明治14年建立。

社殿脇にある摂社の神明宮。

神明宮の建物は、松平直矩の後に村上藩主となった榊原氏の2代目政邦(勝乗)が、元禄三年(1690)に建立した旧本殿を移築したものだそうです。

本殿。

本殿右奥から見下ろす町並みが、昔の城下の雰囲気を残している感じでよかったです。

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