続日本100名城:洲本城(兵庫県洲本市)に行く

  •  
  •  
  •  Category:

洲本城は、淡路島の南東、標高133mの三熊山の山頂部に築かれた「上の城」と 山麓に築かれた「下の城」で構成される城です。

淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏が、永正・大永年間(1504-1528)に支城として築いたのがはじまり。安宅氏は阿波の武将、三好長慶の弟、冬康がその家督を相続して以後、三好氏とともに畿内を転戦。三好政権の一翼を担いますが、三好氏の衰退ともに衰え、1581年、信長の命を受けた秀吉の淡路討伐によって降伏。秀吉配下の仙石秀久が洲本城に入城し、以後この城が四国征伐の拠点になりました。

1585年、四国が平定されて仙石秀久が讃岐に移ると、脇坂安治が淡路の領主となり、 城を現在みられる形に改修します。

江戸幕府成立後の1609年、脇坂安治が伊予の大洲に移ると、淡路は伊勢津藩・藤堂高虎の預かりとなった後、姫路藩・池田輝政の属領となります。 輝政が淡路支配の拠点として新たに淡路島北部に岩屋城を築いたため、洲本城は一旦廃城になりました。

1613年、輝政の死去に伴い三男の忠雄に淡路島が分与されると、忠雄は淡路島南部に由良城を築きここを拠点にします。しかしその2年後、忠雄は兄の早世により岡山藩の家督を相続するため淡路を離れることとなり、大坂の陣の功労で徳島藩主・蜂須賀至鎮(よししげ)が新領主になり、家老の稲田氏が由良城に派遣されます。

その後、交通の不便などの理由から、1631年から4年がかりで洲本に拠点が移されました(由良引け)。由良城は廃され、以後明治維新まで、洲本城が淡路支配の拠点、稲田氏の居城となりました。

蜂須賀家と稲田家はともに信長に仕えていたころには対等に近い関係だったこともあり、 明治維新で武士の身分が士族と卒族に分けられる際に、蜂須賀家と稲田家の家臣同士で諍いが起こりました。このとき蜂須賀家の家臣が処分を受けたのですが、 この出来事が今、淡路島が徳島県ではなく兵庫県に属している一因になっているのだそう。 歴史っていろいろ繋がっているんですねぇ。

車を停めた大沼公園にあった洲本の案内図。江戸時代の町割りがほぼそのまま残っている感じ。 現在地のすぐ下、淡路文化資料館の場所が洲本城の「下の城」、その右下にある山の中の城が「上の城」です。

下の城

上の城と一体として築城されましたが、こちらの石垣と水堀は、蜂須賀氏の所領となってから築かれたもののようです。また、古地図を見ると堀から城内に入れる橋は一つだけでしたが、今は三か所入口があります。

淡路文化資料館。続100名城のスタンプは資料館のなかにあります。

東側の石垣。隅には櫓台。

西側の石垣。 城内には現在、先ほどの資料館のほか、検察庁、拘置所、裁判所が建っています。

上の城

下の城の西側面からそのまま南の山のほうに歩き、 山麓北側、西の登山口から八王子神社を経由するコースで登城しました。

車で山上近くまであがることもできますが、山麓から歩いていくことにしたのは「登り石垣」を見るため。登り石垣とは、山の斜面に縦に築かれた石垣で、敵に山の横の移動をさせないための防御。竪堀の石垣版です。全国でも数か所にしかない珍しいものだそう。 これが洲本城には「西登り石垣」「東登り石垣」と二か所あり、 山麓から上がっていく途中で西登り石垣が見られるということでした。

西登り石垣の一部?

しかし、見たものが登り石垣なのかそうでない石垣かよくわからずじまい。。

八王子神社

そうこうするうちに八王子神社に到着。山麓の登城口から約15分。

この神社は安宅氏が築城したときに勧進したものだそうです。 ずっと残っているんですね。屋根の上の石がすごいです。

八王子木戸

神社をぬけると城の入り口です。

日月の池

八王子木戸をくぐったところの正面、南の窪地にある池。水は山城の生命線。

縄張図

ここでパンフレットの縄張図を確認。図の真ん中あたりに八王子神社があります。 いまはここから城内に入ってきたところ。

まずは西側の本丸のほうに向かいます。

門があったようなところ。奥に見えるのは本丸の石垣。 それにしても洲本城、こんな立派な石垣の城でしたか。

中務母義の郭(二の丸)

本丸の東手前に隣接して二の丸に相当する郭があります。

二の丸は脇坂安治の母や一族が居住していた郭。工事中で立入禁止でした。

二の丸の入口から見えた本丸東側の石垣。

本丸

それでは本丸を見ていきましょう。

本丸大石段

本丸虎口

大石段を上がったところ。立派な枡形虎口になっています。

本丸内部

周囲の石垣にはところどころ雁木(階段)がついていました。

虎口を入ったところから、奥に天守が見えます。

本丸天守台

本丸北側の天守台。当時は大天守と小天守の間を繋ぎ櫓が結んだ連結式天守の構造だったようです。小天守側から上にあがれます。

大天守の側には、天守台の上に小さな台をつけてちょこんと模擬天守が建てられています。 模擬天守としては、昭和3年(1928)に作られた日本最古のものだそう。 100名城に選ばれずに続100名城になったのはこの天守のせい?

天守台から南の本丸方向を見下ろしたところ。すぐ下に見えるのは搦手の虎口。

北側は城下の町並みと紀淡海峡の絶景。

小天守から南東の方向。石垣の下は先ほどの二の丸です。

本丸搦手虎口

先ほど天守台から見た搦手虎口。

外側から見たところ。天守台の石垣と比べるとだいぶ模擬天守は小さいですね。。

この先は立ち入り禁止だったため、搦手虎口に戻って正面の虎口から本丸を出ました。

南の丸

本丸の大石段の途中から撮った南の丸。本丸の防御を固める郭だったよう。

大きな郭でしたが、時間の都合上、中には入らずに外から見るだけにしました。

本丸南側の石垣

本丸南西端の石垣。

本丸西側の石垣と搦手口

搦手といわれていますが、当初はこちらが大手口であったと考えられているそう。 そのせいかこちらも立派な石垣。

籾蔵

食糧の蔵が建っていたところ。食料は山麓から搦手口を通ってここの蔵に納められたと思われるとのこと。

西門

ここから250m離れた西の丸を目指します。

残念石の脇から見る天守

残念石と名付けられた、石材として使われずに放置された石の脇から天守を望む。

西の丸への途中にある撮影スポットといわれる場所ですが、 ちょうど天守下の石垣が工事中だったのが残念。。

西の丸

西側の散策はここまで。来た道を戻り、この後は城の東側を見ていきます。

南の丸隅櫓跡

南の丸の南東部。櫓台の真ん中に斜めに入った線が見えますが、 これは後から増築した跡だそうです。

馬屋(月見台)

勘七郭(かんしちくるわ)とも呼ばれる場所で、現在は駐車場になっています。

月見台からの眺望。手前には洲本温泉街のホテル群、奥には和歌山の友ヶ島が見えます。 友ヶ島には日本軍が紀淡海峡の防備のために作った砲台跡などが残っていて、 その様子からラピュタの島と呼ばれているそう。機会があれば行きたいところ。

大手門

大手門となっていますが、かつての大手門は現在搦手口になっているところで、 こちらは関ケ原の戦い以降に作られたものなのだとか。

武者溜

洲本城の一番東にある、城兵を待機させるための郭。

東一の門は山麓から洲本城内に通じる虎口。

東側から西の方向を見たところ。とにかく広大な郭です。

武者溜の北西に見える、東の丸高石垣。

東の丸高石垣の横から見た洲本の町並み。その手前に階段状になっている東登り石垣が見えました。登り石垣を確認することができてよかった。

東二の門

武者溜と東の丸の間の門。

東の丸

東の丸の案内標識。わかりにくいですが写真右手の坂道らしきところを上がっていくと、 2段になった方形の郭にたどり着きます。

東の丸二段の郭

東南端の石垣が見えました。危うく見落とすところでした。

左に見える石段を登って上へ。

二段石垣の上にあがったところ。

ここは海上の監視や水軍との通信を行う場所だったと考えられているそう。

西側は木が茂っていてしっかり様子を確認できませんでした。

以上で散策は終了。

洲本八幡宮

最後に麓の登城口近くにある洲本八幡宮に立ち寄りました。

こちらの神社には山麓の「下の城」にあった建物「金天閣」が移築されています。

蜂須賀家の家紋、左卍が確認できました。

神社境内から見た「上の城」。

こうして見ると模擬天守も悪くないです。

帰りの飛行機の時間を気にしながら少し急いでまわったつもりでしたがそれでも結構な時間がかかりました。石垣がとにかくすごくて、今まで行った続100名城のなかでもかなり満足度の高い城。機会があればまた訪れたいです。 (滞在時間:約2時間30分)

関連記事