続日本100名城:愛知県豊橋市の吉田城に行く - takerokero blog

続日本100名城:愛知県豊橋市の吉田城に行く

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古宮城に続き本日2城目。古宮城からの所要時間は車で約1時間でした。

吉田城の歴史

吉田城の築城は1505年。東三河の国人、牧野古白(こはく)によって築かれ、当初は今橋城といいました。 当時、三河国渥美郡今橋周辺では、宝飯郡(ほいぐん)を拠点とする牧野氏と渥美郡を拠点とする戸田氏の勢力争いが行われていました。

1546年、駿河の戦国大名、今川氏が吉田城を攻略。城は東三河の最重要拠点と位置付けられました。 しかし、今川義元が桶狭間の戦いで討たれるとその支配力は低下。 1565年、徳川家康が城を奪い、今川氏は三河の支配権を失います。

家康は、後に家康第一の功臣といわれる酒井忠次を城代に任命。 忠次は、東三河の旗頭として国衆を統率しました。

その後、三河、遠江では、武田氏との攻防戦が約10年続きました。 形勢逆転の契機となった1575年の長篠の戦いでは、 酒井忠次発案の奇襲作戦がその勝敗を決定づけたともいわれています。

1590年、豊臣秀吉が天下を統一し、家康が関東へ移封になると、 吉田城の城主は東三河4郡15万2千石を与えられた池田輝政になりました。 輝政は石高に見合う大城郭へ改修します。

秀吉の仲介で家康の次女、督姫を妻に迎えた輝政は、 秀吉の死後徳川方につき、1600年、関ヶ原の戦いで西軍の織田秀信が守る岐阜城を攻略。 戦後、家康の命で姫路52万石に加増転封となり、現在の姫路城を築きました。

江戸時代、吉田城は三河吉田藩の藩庁となります。 老中、大阪城代、京都所司代格の譜代大名が藩主につく一方で、 頻繁に国替が行われ、藩主が定着しない時期が続きました。
そのうち、1705-1712年の間は築城者の末裔の牧野氏が藩主を務めています。

1749年、9代将軍徳川家重の頃、松平氏の庶流で、 家光・家綱の時代に島原の乱や明暦の大火の対応で活躍した松平信綱の家系、 大河内松平家が浜松より7万石で入封すると、7代続いて明治維新を迎えました。

吉田城【三河国渥美郡】(2020年2月1日)

城の一部は現在、豊橋公園になっています。 公園内に建つ豊橋市美術博物館の駐車場に車を停めて散策開始。

駐車場のすぐ脇に、土塁と「川毛口門跡」の碑がありました。 川毛口門は、三の丸に入る東門。 ただ、あとで古地図と照らし合わせてみると往時の門は、この位置からもう少し北側にあったようです。 三の丸には倉庫などが置かれ、その外側は武家屋敷が立ち並んでいました。
前に見えているのが美術博物館です。

美術館は続100名城スタンプ設置場所ではありませんが、 そこで城のパンフレットがもらえると聞いていたので、最初に立ち寄りました。 館内には駐車場が3時間無料になる機械も置いてあり、使わせてもらいました。

吉田城

豊橋公園の正面入口は、三の丸に入る南門、三の丸門があった場所です。 なんとなく物々しい感じがするのは、 明治維新後、吉田城には陸軍の歩兵第18聯隊の兵舎が置かれ、ここがその正門だったからです。

吉田城

正面入口を入ったところの吉田城案内図。 現在地の場所から右側が現在の豊橋公園で、左側は市役所や中学校になっています。 二の丸と三の丸の間や三の丸の外側には堀があったようですが、今は面影もありません。 土塁は先程の川毛口門跡のところのように少し残っています。

吉田城

着到櫓跡。 三の丸から二の丸に入るところに建っていた櫓で、城内に集まった兵士を観察・点検する役目があったそうです。

吉田城

歴代の城主が住んだ二の丸御殿があったあたり。

吉田城

金柑丸。今橋城時代の本丸があったところと伝えられているそうです。 現在は神武天皇像が建っていました。

吉田城

本丸東側の堀。本丸を囲っている堀はしっかり残っています。堀の向こうは豊川。

吉田城

同じ位置から南を見たところ。正面の土塁は本丸の辰巳櫓跡。

吉田城

本丸東の裏御門から本丸に入りました。

吉田城

本丸。1707年の宝永大地震で倒壊するまでは、将軍が上洛時に宿所にした御殿があったそうです。
四隅には櫓が配されていました。正面に見えるのは北西に建つ鉄(くろがね)櫓で昭和29年に模擬再建されたもの。 ここが続100名城スタンプ設置場所ですが、開館は15:00まで(月曜休館)で既に閉まっていました。 一瞬焦りましたが、三の丸跡に建つ豊橋市役所東館にもスタンプがある(そちらは毎日8:00-22:00まで押印可能)とわかり一安心。 後でゆっくり押すことにします。

吉田城

北西側から南東方向をみたところ。往時は正面に辰巳櫓がありました。 石垣の上に上る階段はすべて立入禁止になっていました。

吉田城

本丸の北側には豊川が流れています。下に見えるのは水手門。往時は川の脇の歩道まで水面でした。

吉田城

北御多門跡。

吉田城

北御多門を出たところは腰曲輪になっていました。

吉田城

腰曲輪に建てられた川手櫓跡。礎石らしきものが少し残っています。

吉田城

川手櫓跡から見た鉄櫓下の石垣。池田輝政時代に造られた石垣で、 江戸時代に2度あった大地震でも崩れなかったそうです。

吉田城

本丸西側の堀を北から。かなり立派。

吉田城

水手門を出て豊川脇の歩道を通り、城の北西の水門を見に行きました。豊川から城内に物資を運び入れた船着場だった場所。

吉田城

本丸に戻って、南御多門と南西の千貫櫓跡。

吉田城

南御多門を二の丸のほうから。

吉田城

本丸南西の堀。

吉田城

本丸南の堀。

吉田城

市役所東館13階に行ってスタンプを押しました。

吉田城

市役所から北東の本丸方向。

吉田城

市役所から北西の方向。下に見える中学校からこちら側が吉田城のあったところ。 前の橋は吉田大橋で国道1号線。向こうに見える橋が旧吉田大橋で、現在の豊橋(とよばし)。そちらが旧東海道。

吉田城

市役所から南西の方向。豊橋駅、遠くは渥美半島の方向です。東海道の吉田宿があったのもこちらの方向です。

吉田城



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