続日本100名城:福岡県久留米市の久留米城に行く - takerokero blog

続日本100名城:福岡県久留米市の久留米城に行く

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関ヶ原の戦い後、その功績により筑後一国325000石は田中吉政に与えられました。 吉政はもともと豊臣秀次の家老で、近江八幡などの都市設計で功績を残してきた人物。 秀次が謀反の疑いをかけられ自刃後は、三河岡崎城で10万石の大名となっていました。 しかし、2代目忠政が病没すると、無嗣断絶で改易されてしまいます。

旧領は分割され、1621年、久留米城に丹波福知山藩より有馬豊氏(とようじ)が入り、久留米藩を立藩。その後は明治維新まで、城は有馬氏21万石の居城となりました。 なおこの有馬氏は、鎌倉末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏の庶流になります。

訪問記

朝、8時に佐賀市内の旅館を出発し、到着は8時30分。
現在、残っているのは本丸部分のみ。本丸は綺麗な長方形で、周囲は高い石垣で囲われています。 当時の建物はなく、内部は有馬氏の主要な藩主5氏を祀る篠山神社になっています。

蜜柑丸

駐車場は本丸東側面の石垣の外側、蜜柑丸という腰曲輪があった場所で、立派な石垣に目を引かれました。

東御門に入る石段

すぐに本丸に入りたい気持ちを抑えて、少し周りの石垣をみることにしました。

久留米城

駐車場正面の石垣

ここは随分小さい石が積まれています。

久留米城

本丸南東角の石垣

上には城内で最も大きな三層の辰巳櫓が建っていました。

久留米城

角と側面の石の積み方の違いが面白いです。

久留米城

本丸北東からみた東の石垣

出っ張ったところは、二層の月見櫓が建っていたところ。この後ろに東御門の入口があります。 腰曲輪の外側は、現在、道とその向こうはグランドになっていますが、当時は水堀があったようです。

久留米城

東御門

石段を上がって本丸側から振り返ったところ。

久留米城

門を入ったところにわかりやすい案内板がありました。 パンフレットの類はなかったので、これを確認しながら、本丸内を反時計回りな感じで歩きました。

久留米城

月見櫓

櫓のあったところから本丸内をみたところ。

久留米城

聖徳太子像

月見櫓の並びに何故か聖徳太子像がありました。 これに限らず、本丸内には様々な石碑が建っていました。

久留米城

紫陽花

そういえば今年はまだアジサイの花を撮っていなかったなぁと思いながら一枚。

久留米城

艮櫓

北東角の櫓

久留米城

乾櫓

北西角の櫓

久留米城

筑後川が見えました。

久留米城

井戸

城内に3つあった井戸のうち、2つが残っているそうです。

久留米城

そのうち南西のものは現在も使われている雰囲気でした。

久留米城

篠山神社

本丸の中央、本丸御殿のあった場所には篠山神社。 続100名城のスタンプは社務所の前に置かれていました。

久留米城

小早川神社

篠山神社の横には、小さな祠のような小早川神社がありました。 こちらの御祭神は、毛利元就の九男、毛利秀包(ひでかね)

元就三男の小早川隆景の養子となり、秀吉の九州征伐後、隆景が筑前筑後を領すると、 秀包にも筑後7万5000石が与えられ、1587年に久留米城を築きました。 1594年、秀吉の養子、小早川秀秋が隆景の養子になると廃嫡され、別家を創設。
しかし、1600年、関ヶ原の戦いでは西軍につき、改易され、本家の毛利家領地内で1601年に病没しました。

久留米城

太鼓櫓

本丸の南、正面入口である「冠木御門」の左手に位置する櫓。右に見えるのは、坤櫓の石垣。

久留米城

冠木御門

冠木御門から本丸を出て、振り返ったところ。正面入口。

久留米城

入っていくところは桝形のようになっています。

久留米城

冠木御門から二の丸方向

本丸の南側には二の丸、さらにその南に三の丸がありました。現在は主にブリヂストンの工場。 ブリヂストンの創業地は久留米なのだそうです。 そういえば久留米駅のほうから城に向かう道は、ブリヂストン通りという名前がついていました。

久留米城

周辺の地図

久留米城

本丸南西角の石垣

坤櫓(左)と太鼓櫓(右)の石垣と手前に水堀。

久留米城

本丸西の石垣

建物の裏にあって本丸の内側からは見られなかった西下櫓の石垣を見ようと筑後川の土手まで歩いていったのですが、 西下櫓は住宅とくっついており、近づくことができず、よくわかりませんでした。

久留米城

筑後川

土手の上は気持ちのいい風が吹いていました。当時は天然の堀としての役目もあったのでしょう。 川の向こうに見えるのはおそらく背振山。

久留米城

只今の時刻は、9時45分。所要時間は、1時間15分でした。



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