100名城:島原城(長崎県島原市)に行く

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島原城は大坂の陣後に大和五條藩より着任した新藩主・松倉重政が1618年から4~7の歳月をかけて築いた城。 石高に見合わぬ過分な城で、城普請の費用を確保するため領民に通常の2倍の年貢を課したことが、1637-38年に起こった島原の乱の一因といわれています。 前藩主有馬氏時代からの海外貿易による利益と松倉氏の新興大名としての野心がそうした城を築かせたとか。どんなお城なんでしょうか、とても興味深いです。

訪問日は平日の火曜日。 朝一のフェリーで熊本からレンタカーと一緒に島原に渡り、島原駅の駐車場に車を停めたところから散策をスタート。

島原駅前からまっすぐに伸びる道の先にはもうお城の建物が見えています。

突き当たったところに櫓が見えました。これは本丸の北東に建つ丑寅櫓。

少し左手に進んだところには、本丸の南東角に建つ巽櫓。奥に続く石垣の折れがすごい。

天守も入れたベストショット。かつては五重五階の天守を中心に本丸と二ノ丸だけで 大小16基の櫓が配されていたとのこと。田舎の中にこんなものを造っていたら、一揆も起こるでしょうね。
なお、現在ある天守と三つの三重櫓はすべて昭和の時代に絵図等を参考に鉄筋コンクリートで復元されたもの。 築城400年(2024年)を来年に控え、外装の改修工事が行われたばかりでピカピカです。

散策にあたって頼りにしたのはこの図です。 島原城の縄張りは、南から北に本丸、二の丸、三の丸が並ぶ連格式の曲輪配置とそれらを囲う外郭が特徴。 史跡になっているのは本丸と二の丸部分で他は市街地化されていますが、外郭の石垣が一部残っているとのこと。

現在地は水堀の南東角。 今日はこれから、水堀の外周を時計回りにまわって、北側から二の丸に入り、そのまま南下して本丸へ。 天守内部の資料館、展望台を見学した後、外郭の石垣の遺構を探す予定。

本丸の南の堀を西に進んだところ。奥に見える櫓は昭和35年に一番最初に復元された西の櫓。

南西角から。左手の石垣の間に城への入口が見えますが、こちらは江戸期にはなく後に改変して造られたもの。 江戸時代は二の丸からしか本丸に入ることができなかったので、今日は当時のルートで散策します。

南西角の入口横にある周辺案内図。二の丸は文化会館と公民館になっていて、二の丸の北(左)側の学校の部分がかつては三の丸で御殿があったところ。 本丸、二の丸、三の丸を囲っていた外郭の内側には上級武士の屋敷があり、外郭の外側のうち西側、案内図でいうと水堀の左下のあたりに下級武士の屋敷があったそうです。

本丸(右)と二の丸(左)の間。これだけの広さがあります。 今は空堀になっていますが、当時は水堀でした。

二の丸の北西角から南の方向。手前に見える建物が二の丸にある公民館。 公民館の後ろに見えているのは本丸の天守。一番向こうに見えているのは西の櫓です。

同じ場所から見た二の丸の北側の通り。左手の白壁のところは三の丸に建つ中学校。

二の丸への入り口を過ぎて、北東角からみた南側の景色も見ておきました。こちら側も立派な堀と石垣でした。

二の丸の入口を少し横から見たところ。堀の下に降りる階段は昔はなかったでしょう。 正面奥に見えているのは眉山という山です。

それでは二の丸に入ります。左手は文化会館大ホールで右手は小ホール。

まっすぐ進んで突き当り。本丸に渡る廊下橋はなくなっていますが、通路があるのでそこを通ります。

本丸に入り、梅林をぬけると天守が見えてきました。

天守内部にはいろいろな展示がありましたが、なかでも私が気に入ったのはこちらの「藩主愛玩の人形」。

島原の乱に関する展示もたくさんありました。島原の乱というと原城が思い浮かびますが、 当初一揆軍は島原城を攻撃したものの落とすことができず、原城に籠城したのだそうです。 一揆の人たちが苦しんで造った城はやっぱり強固だったのかと思うと何だか切なくなりました。

島原城と周辺の図。 白いところが上級武士の屋敷、水色が下級武士の屋敷、ピンクが町人地、城の南側が寺社地でしょうか。

天守からの眺望。南東方向は今でも町。

南方向、右半分のところにはやっぱりお寺が多い気がします。

西の武家地は住宅街ですかね。

北方向。本丸の梅林、二の丸の文化会館と公民館があって、その奥の学校のところが御殿のあった三の丸。

最後に外郭の痕跡を探します。こちらは大手門跡。 最初の図によれば手前の電柱の後ろ、裁判所のところに門の入口があったよう。正面の道は石垣で塞がれていたみたいです。 道の先の左手には石垣が続いていますが、遺構かどうかはよくわからりませんでした。

東堀端通りから一本入った道から見える石垣は確実に外郭の遺構で、 最初に駅からお城に向かって歩いた道のところまで(道を挟んでその先にも)続いていました。

松倉氏は島原の乱を招いた責めにより2代で改易。 その後は、高力氏(2代)、深溝松平氏(5代)、戸田氏(2代)、深溝松平氏(8代)と続き、 明治維新を迎えました。深溝(ふこうず)松平氏は松平庶流十四家の一つ。 最後の藩主、松平忠和(ただかず)は徳川慶喜の異母弟で、 明治大学の開校にあたり校舎として有楽町の旧島原藩上屋敷跡地を提供した人だそうです。

歴史的な背景含めてとてもおもしろい、印象に残る城でした。街中に残る遺構もいいですね。 天候もよくいい時季に来られてよかったです。

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