日本100名城・宮崎県日南市の飫肥城に行く

  •  
  •  
  •  Category:

飫肥は戦国時代、島津氏と伊東氏が権益をめぐって争った土地で、飫肥城は江戸時代、飫肥藩の藩庁の城でした。飫肥藩の石高は5180石余(実質的な石高は7万石)、藩域は日向国宮崎郡と那珂郡(現在の日南市全域と宮崎市南部)、藩主は明治4年の廃藩置県まで伊東家が14代にわたって務めました。

飫肥城の入り口、大手門。その前にまずは手前左手に少し見えている「豫章館(よしょうかん)」を見学することにしました。

豫章館

明治2年に建てられた藩主伊東家の屋敷だそうです。

伊東氏は平安時代に藤原氏の一族が駿河・伊豆国司となり伊豆国伊東荘に住し、伊東氏を称したのがはじまり。鎌倉時代に日向国の地頭職に任じられ、南北朝時代に児湯郡(とゆぐん)都於郡(とのこおり)に所領を与えられて下向してきました。

日向伊東氏11代当主・伊東義祐は、飫肥を領する島津氏の分家・島津豊州家と争い、1569年に飫肥の支配権を得て、最盛期を築きました。しかし、1577年に島津氏に敗れると日向を捨て、姻戚関係があった大友宗麟の豊後国に逃れます。1578年、大友宗麟は、伊東氏の旧領を回復する大義名分で日向国に侵攻しますが、島津氏に敗れました(耳川の戦い)。
義祐の次男・祐兵(すけたけ)は伊予に逃れた後、羽柴秀吉に仕官。1586年、秀吉の九州征伐に加わり、その功によって飫肥城を回復。飫肥藩初代藩主となりました。その子・祐慶(すけのり)は、関ケ原の戦いで東軍に与し、所領を安堵されました。

枯山水庭園。

飫肥城

それでは飫肥城に入りましょう。

大手門虎口の内側。なお城内に現存する建物はなく、遺構は石垣、堀、土塁のみ。大手門や塀は模擬建造物です。

城内の説明板には縄張図的なものがなく、一番良かったのは飫肥城のチケットでした。飫肥城はシラス台地を削った大小13の曲輪からなる壮大な城でしたが、現在残されている城域は、そのうち本丸、旧本丸、松の丸の3つの曲輪です。 本丸の南にある門が今くぐってきた大手門。本丸への入り口は、大手門のすぐ上と左手(西側)奥の2か所ですが、左手奥の入り口は桝形になっており、こちらが正面入口のようです。

本丸南面の石垣、中央付近から東側を見たところ。

本丸南面の石垣、中央付近にある本丸への入り口。ここからも本丸に行けますが、正面入口から入ることにしました。

西側から見た本丸南面の石垣。左に見えるのが正面入口の石段。

西側、正面入口の石段。ここから本丸に入ります。

石段を上がった先は桝形になっています。

右に折れて、本丸の内部に入ります。正面にみえる生垣の向こうには小学校があります。

本丸のなかから見た桝形。正面、木の向こうに見えるのは本丸南西隅に建てられている飫肥城歴史資料館。ここで100名城のスタンプを押しました。私事ですが、これでめでたく100名城踏破となりました。

振り返って北側に目を向けると、こちらが旧本丸の土塁です。もともとは旧本丸に藩主の御殿があったのですが、江戸時代初期に3度の地震が起こり、地割れが発生したため、元禄時代に御殿を現在の本丸に移したとのこと。右奥に小さく見えている石段を上っていくと旧本丸に行けます。

旧本丸への石段を少し上がったところから見た本丸全景。 こうして見ると本丸の敷地のほとんどが飫肥小学校のグランドでした。

それでは旧本丸に向かいます。

旧本丸には飫肥杉が植えられていました。

何も説明はなかったのですが手水のようです。

旧本丸北側にある門から、外を見たところ。眼下に見えるグランドも元々は飫肥城の曲輪だったようです。

北側の門を外側から。

旧本丸に上がってきた石段を下りて、本丸に戻ります。

右手に少し見えているのが旧本丸の土塁、左手奥に見えるのが松尾の丸の土塁。

松尾の丸に上がる石段。

松尾の丸にある御殿。ただし、これは昭和54年に復興事業で建てられた史実とは関係のない建物です。

周囲の土塁は遺構でしょうか。。

松尾の丸から本丸西側の正面入口を見下ろしたところ。結構な高さがあります。

先の写真とは反対に、本丸西側の正面入口から見た松尾の丸の石垣。

大手門西側の土塁。

本丸南東端の石垣。鐘楼が見えますがそこは小学校の敷地内。

本丸南東端の石垣を別角度から。

こちらも本丸南東端から、北の方向をみたところ。 奥にちらっと見えているのは小学校の校舎。絵図を見ると校舎は今城という曲輪に建てられているようです。

大手門を出て、土橋の上から見た西側の空堀。

反対側、東側の空堀。

同じ空堀を東の端から。

空堀は北のほうにも続いています。

今城という曲輪の東南端。今城は小学校になっていますが、道の反対側、奥に見える曲輪も中学校になっています。

小村寿太郎生家

飫肥城を囲う空堀の東隣に、小村寿太郎の生家が移築されています。

日露戦争後に結ばれたポーツマス条約の全権代表である小村寿太郎は、飫肥藩の下級武士の出身だそうです。飫肥藩で最も有名な人物でしょう。

飫肥藩藩校・振徳堂

飫肥藩13代藩主、伊東祐相(すけとも)によって作られた藩校。小村寿太郎もここで学んだそうです。







小村寿太郎の銅像。寿太郎は6歳から振徳堂で学び、15歳のとき東京大学の前身、大学南校に進みました。その後、ハーバード大学に留学。帰国後、司法省を経て外務省に入省したそうです。 ものすごく優秀だったみたい。ちなみに身長は150cmぐらいで小柄な方でした。

小倉処平顕彰の碑。小村寿太郎の恩師で、大学南校に小村寿太郎を推挙した人物とのこと。 1877年、西南戦争に参加し、32歳で亡くなりました。

小村寿太郎誕生の地

大手門からまっすぐ南に延びる道のならびに小村寿太郎誕生の地があります。

誕生の地から北の大手門の方を見たところ。



旧山本猪平家

小村寿太郎誕生の地の隣にある商家の建物。明治40年頃に建てられものがほぼ当時のまま保存されているそうです。

元々屋敷地の南半分は小村寿太郎の父、寛の屋敷地でしたが小村家が没落したため、山本家が買収したのだそう。



陶磁器のタイルがおしゃれですね。



関連記事