肥後熊本藩藩主加藤忠広が、元和5年(1619)の地震で崩壊した支城・麦島城に代わる城建設の許可を幕府より得て、家老の加藤正方が球磨川河口北側の松江村に築いた平城。
寛永9年(1632)、加藤氏が改易になると、熊本には細川氏が入封。
八代城には、藩主の父、細川忠興が入城し、北の丸を居所として、本丸に四男の立孝を居住させました。正保2年(1645)、立孝、忠興が相次いで没すると翌3年、家老松井輿長が入城し、以後松井氏が代々在城しました。
八代市立博物館のリーフレット 「ホンモノで体感!行ってみよう!八代城」 がとてもわかりやすくまとめられています。 以下、掲載されている地図を見ながら、お城とそのまわりを散策しました。
お城の西側、侍屋敷があったところに建てられている八代市立博物館の駐車場から散策スタート。こちらは博物館前のくまモンですが、ほかにもお城のまわりにたくさんくまモンがいました。くまモンと関係が深い町でしょうか?
松浜軒(しょうひんけん)。細川氏の筆頭家老で八代城代を務めた松井家の3代、松井直之(まついなおゆき)が、元禄元年(1688)生母・崇芳院のために建てた茶庭。当時、敷地の北側と西側は八代海に面しており、池の水は球磨川から導水。浜堤には松林が連なり松波越しに八代海・宇土半島、その先に雲仙を望む雄大な眺望の庭園だったそう。
肥後花菖蒲が有名。開園時間前だったので庭には入れず、玄関前の写真だけ。
玄関は明治時代になってから増築された部分。
北の丸の外堀の一部だったところ。
普通に歩いていたらただの水たまりだと思う。。
北の丸は、往時城主の屋敷があったところですが、現在は松井神社が建てられています。
明治14年創建。城主の子孫のかたが宮司らしい。
屋敷の庭園の池がそのまま残っています。
臥龍梅(がりょうばい)。細川忠興が自ら植えたと伝えられる梅。
北の丸からみた本丸。右の石垣の上に大天守が建っていました。正面の入口は廊下橋門跡。城主はこの門からお城に通ったそうです。
北の丸東側の石垣を外側から。こういう街中に何気なくある城の痕跡が好き。
今、立っている場所は昔は水堀だったところ。
北の丸の東側と北側に被さるように造られた曲輪、出丸にある八王社(やつおうしゃ)の樟。現在は代陽小学校の敷地内。
城が出来る以前、この場所は浅井の津と呼ばれる港で、楠は港に入る船の目標樹だったとのこと。樹齢千年。
北東からみた本丸。
本丸の東側、本丸正門にあたる欄干橋門。
欄干橋門を正面から。往時あった門は高麗門で、
橋は木造の太鼓橋だったそう。左の石垣の上には磨櫓という櫓が建っていました。
門を入り、振り返ったところ。正面、かつて二の丸だったところには八千代市役所が建っています。
門の中は枡形で、右に折れたところには二ノ門に相当する櫓門の頬当門がありました。
門をくぐり、さらに左に折れて本丸に入ります。
すぐ目の前のところから大書院の建物が立ち並んでいました。
本丸南東端に相撲場。かつては写真右あたりに能舞台の建物があったそう。
本丸南側の石垣の上から東方向。東端には宝形櫓という櫓が建っていました。
同じ位置から西方向。奥に見える橋は明治時代になって石垣を壊して造られたもの。
現在本丸内は八代宮(やしろぐう)という神社の境内になっています。西南戦争後の明治13年創建。御祭神は、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った後醍醐天皇の皇子、懐良親王(かねよししんのう)とその跡を継いだ良成親王(よしなりしんのう)。
官幣中社だけあって立派な神社です。
本丸北東の三階櫓跡。
三階櫓の石垣の上から見た本丸東側の堀。
本丸北側、北九間櫓跡。
北九間櫓の石垣の上から見る本丸裏門の二ノ門、埋門の跡。
向こうの石垣の上には唐人櫓がありました。
本丸裏門の一ノ門、廊下橋門を北九間櫓の石垣の上から。
埋門。左は唐人櫓の石垣。
埋門をくぐって右に折れたところが廊下橋門。
唐人櫓の石垣の上から本丸のなかを見たところ。
櫓の石垣には合坂(あいさか)と呼ばれるV字型の階段の一部がみえています。
小天守跡から大天守の方向。
大天守へ。結構な迫力。
大天守の地下部分。大天守は地上4階、地下1階の5階構造だったと考えられています。
寛文12年(1672)に落雷で焼失してからは再建されませんでした。
大天守の上から地下部分を見たところ。
大天守の上から北西方向。
大天守から小天守方向。小天守は2層3階構造で渡櫓によって大天守と繋がっていました。
小天守は焼失後も再建されたとのことですが現在は残っていません。
大天守石垣を堀越しに。
本丸南西の石垣のうえには2階構造の月見櫓がありました。
八代宮前にあった絵図。
本丸南東端、宝形櫓跡を二の丸のほうから。
二の丸南面の石垣。
三の丸外側の堀跡(多分)。